早期玉砕から徹底抗戦へ-ペリリュー島と硫黄島

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1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島が陥落し、絶対国防圏が破られた日本は、疲弊した戦力を回復し、日本本土の防備を固めるために、時間を稼がねばなりませんでした。

そのため、援軍の見込みのない太平洋の島々では、守備隊が強力な陣地を築き、長期にわたって徹底抗戦する戦術に変化していきました。

 

ペリリュー島・アンガウル島の戦い

フィリピン攻略の前哨戦としてのパラオ諸島攻撃

アメリカ軍はフィリピン攻撃に先立ち、パラオ諸島の「ペリリュー島」「アンガウル島」という二つの島を攻撃しました。

マッカーサー率いるアメリカ「南西太平洋軍」はニューギニア島を日本攻略の主な拠点としていました。

そこからフィリピンへ向かう際、地理的に途中にあるパラオ諸島の島々を攻め落としておくことで、フィリピン攻略のための飛行場や補給基地を確保できるというメリットがありました。

ペリリュー島・アンガウル島と周辺の位置関係

青=ペリリュー島
緑=アンガウル島
オレンジ=レイテ島(フィリピン・アメリカ軍上陸地点)
紫=ニューギニア島(アメリカ軍反攻拠点)

※ペリリュー島がアンガウル島に隠れて見えない場合は地図左下の「+」をクリックすると拡大できます。また、右上の「拡大地図を表示」をクリックするとGoogle Mapのウィンドウで大きく見ることができます。

戦術の変更

ペリリュー島の日本軍は、サイパン玉砕までとは戦術を変えました。

それまでは敵が防御態勢を取りづらい水際(上陸寸前または上陸直後)で上陸部隊を攻撃し、その後味方の被害が大きくなったら玉砕を行うという流れが多かったのですが、この方法では大軍で攻め寄せてくるアメリカ軍に対しては、それほど敵に打撃を与えられない上に、すぐに島が敵の手に渡ってしまうことが分かりました。

戦力が著しく落ちていた日本軍は、少しでも時間を稼いで戦力を回復し、日本本土の守備を固める必要がありました。

そこで、各島の守備においても時間を稼ぐため、堅固な陣地を張り巡らせ、十分に敵を引き付けてから一気に火力を集中させて叩き、敵の損害をより大きくしたうえで、敵の上陸後も陣地をなるべく離れず、粘り強く戦い続けるという戦術を取ることにしました。

そのため、ペリリュー島の地下に多くの陣地を掘って地下にこもって戦えるようにし、さらに大砲や機関銃を網の目のように多数配置し、上陸してきた敵兵がどこにいても攻撃できるようにしました。

日本軍が斜面を利用して構築したトーチカ
日本軍が斜面を利用して構築した防御陣地。横長の穴から砲撃・射撃を行う。大砲に撃たれても岩山とコンクリートに覆われており、被害は少ない。

 

上陸開始

1944(昭和19)年9月15日、アメリカ軍はペリリュー島に、そして二日後にアンガウル島に上陸しました。

アンガウル島では、約1,200人の守備隊が2万人を超えるアメリカ軍と戦い、およそ1か月後、負傷し捕虜となった60人を除いて玉砕しました。

アンガウル島地図。青矢印=アメリカ軍進攻路、赤斜線=日本軍陣地

 

ペリリュー島では、守備隊約1万人に対しアメリカ軍は延べ4万人で挑みました。

すぐに島を落とせるとアメリカ軍指揮官は楽観していましたが、洞窟陣地にこもり、火力を集中する日本軍に甚大な被害を被りました。

激戦は約2か月続き、最終的にアメリカ軍は死者1,684人、負傷者7,160人、日本軍は戦死10,022人、捕虜となり生還した兵は446人でした。

ペリリュー島で負傷した戦友に水を飲ませる米海兵隊員
ペリリュー島で負傷した戦友に水を飲ませる米海兵隊員

 

戦略的意味を失っても戦い続けなければならなかったアメリカ兵

ペリリュー島へアメリカ軍が上陸してから約1か月後、アメリカ軍はフィリピンへの上陸を行いました。

フィリピン上陸を空から支援するという、ペリリュー島の攻撃の意味はこの時点で既に失われていましたが、その時点で多大な犠牲を払っていただけに戦闘を止めるわけにはいかず、アメリカ軍はペリリュー島の日本軍が玉砕するまで戦い続けました。

島の日本軍としては、アメリカ海兵隊と陸軍部隊の一部を長く釘付けにすることができました。

 💡  フィリピンの戦いはこちら ➡ 永久抗戦せよ-フィリピン防衛戦

 

次は ➡  硫黄島の戦い

 

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