1944(昭和19)年10月23日~25日(24日~25日とする資料もある)、フィリピン周辺の海域で日本軍とアメリカ軍を中心とする連合国軍との間の大規模な海戦が発生しました。
レイテ沖海戦と称されるこの海戦は、(1)シブヤン海海戦、(2)スリガオ海峡海戦、(3)エンガノ岬沖海戦、(4)サマール島沖海戦の四つの海戦を中心として行われた一連の空・海戦の総称であり、空前の規模で行われ、かつ世界最後の艦隊決戦となりました。
この海戦で日本の連合艦隊は残存戦力をかき集めた総力戦を挑んだものの、あえなく大部分の艦船・艦載機を失ったうえ、レイテ湾へ突入し敵補給部隊を撃滅するという目的も果たせませんでした。
背景
マリアナ沖海戦敗退から台湾沖航空戦まで
1944年6月にマリアナ沖海戦で日本海軍は空母機動部隊の大半を失う大損害を喫し、翌7月には「絶対国防圏」の重要拠点とされていたサイパン島が陥落します。
歴戦の空母艦載機搭乗員の多くと、主力空母、多数の艦載機を日本海軍は失い、時間と費用のかかる空母部隊の再建は絶望的となりました。
そこで、台風が頻発する夏から秋にかけ、敵空母が離発着できないタイミングを狙い、当時日本領だった台湾の航空基地から敵空母や戦艦部隊に対して夜間攻撃を仕掛ける作戦(台風の頭文字をとって「T攻撃部隊」と命名)が立案されました。
10月10日、アメリカ軍は台湾沖の空母部隊から出撃した艦載機によって、琉球列島全域に大規模な空襲を行います。
12日には台湾の基地に空襲を行いました。これは、フィリピン上陸に先立ち日本の航空戦力を潰しておくためと、日本軍の意識を沖縄方面に引き付けておくことが目的でした。
台湾に集結していた日本航空部隊は遂に10月12日から16日頃にかけ、沖縄や台湾を空襲するアメリカ軍空母や戦艦部隊に対し、日本軍は台湾の陸上基地から航空機による攻撃を行いました(台湾沖航空戦)。
この航空戦で日本海軍は敵空母11隻を撃沈するなどの大成果を挙げたと発表し、それまでずっと敗戦一色だった日本は国中が狂喜しました。
しかし、その直後、戦果発表は間違いであり、実際はほとんどアメリカ艦隊に損害を与えていないことが海軍部内で明らかになりました。
日本軍機は敵レーダーによって発見され、多くが攻撃前に敵機または対空砲火によって撃墜されていました。
加えて悪天候かつ夜間の攻撃に加え、技量不足から戦果報告が正確ではなく、それを報告を受けた上官が積み上げていったため、事実とは全く違う戦果が発表されることになったのです(実際は大型巡洋艦2隻を大破させたのみで、沈没はなし)。
それにもかかわらず、国中が大喜びしている中で海軍はそのことを言い出せず、天皇や政府はおろか、陸軍でさえ敵空母が壊滅したことを信じたままその後の作戦計画を立てていくことになります。
さらに、この戦いで日本軍はフィリピンでの戦闘に参加する予定だった航空機の多くを失ってしまいました。
フィリピンをめぐる戦い
台湾沖航空戦直後の10月20日、約20万人のアメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸します。この事実は日本にとって見過ごすことのできない脅威でした。
フィリピンは石油や鉱物資源の産出地であるインドネシアなどと日本を結ぶ「シーレーン」(海上交通路)の真っ只中にあり、フィリピンが落とされれば日本は戦争を継続するだけの資源が得られなくなることを意味したからです。
赤=レイテ湾
青=フィリピンの首都マニラ(ルソン島)
緑=サイパン島
紫=インドネシア・ボルネオ島
黄=台湾
そのため、レイテ島に上陸したアメリカ軍への物資運搬を断ち切るために、日本海軍連合艦隊の残存艦をかき集めた作戦が発令されました(捷一号(しょういちごう)作戦)。
この海戦は主に4つの日本艦隊が連携しながら別々に動き、レイテ湾のアメリカ軍の輸送船や艦艇を一気に撃破することを目的としたものです。
そのために、日本空母部隊(小澤艦隊)がおとりとしてアメリカ軍空母部隊を北方に引き付けている間に、戦艦を中心とした艦隊がレイテ湾に突入する作戦でした。
艦隊の構成は以下のとおりです。各部隊が別コースを取り、小澤艦隊以外はレイテ湾を目指すというものでした。
【第一遊撃部隊】
第二艦隊(栗田健男中将)…戦艦7(大和、武蔵を含む)、重巡洋艦11、軽巡洋艦2、駆逐艦19
【機動部隊本体】
第三艦隊(小澤治三郎中将)…空母4、艦載機108機、航空戦艦2、軽巡洋艦3、駆逐艦8
【第二遊撃部隊】
第五艦隊(志摩清英中将)…重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦4
【先遣部隊】
第六艦隊(三輪筏義中将)…潜水艦13
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