戦前・戦中、日本は今の国土よりもはるかに広大な領域を植民地や勢力圏として保持していました。本項では、朝鮮半島、台湾、樺太・千島、太平洋の島々で戦前の日本がどのように勢力圏を広げていったのかを概観します。
目次
朝鮮半島
明治新政府と朝鮮情勢
新政府は発足とともに朝鮮に国交樹立を求めました。しかし、当時鎖国政策をとっていた朝鮮は、正式の交渉には応じませんでした。
1873(明治6)年、政府首脳の西郷隆盛・板垣退助らは韓国を武力で討伐することも辞さない「征韓論」をとなえたものの、大久保利通らの強い反対にあって挫折します。
日朝修好条規:朝鮮に突きつけた不平等条約
2年後の1875(明治8)年、日本の軍艦が首都漢城近くの江華島で朝鮮側を挑発し、戦闘に発展しました(江華島事件)。
この江華島事件を機に日本は朝鮮にせまり、翌1876年、「日朝修好条規」を結び、朝鮮を開国させました。日朝修好条規は、釜山ほか2港を開かせ、日本の領事裁判権や関税免除を認めさせるなどの不平等条約でした。
脱亜論:朝鮮問題に関する軍事的解決機運の高まり
朝鮮を開国させて以降、朝鮮国内では親日派勢力と抗日勢力の間に武力を伴う争いが起き、親日勢力は日本を、抗日勢力は清国を頼りにし、両国が武力介入する事態に発展していきました。
この中で、日本の朝鮮に対する影響が著しく減退する一方、清国の朝鮮進出は強化されていきました。同時に清国・朝鮮に対する日本の世論は急速に悪化していきます。
福沢諭吉は「脱亜論」(1885年)を発表。両国に対する失望から、アジアの連帯を否定し、日本がアジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、清国・朝鮮に対しては武力をもって対処すべきことを主張するもので、軍事的対決の機運を高めるものとなりました。
日清戦争:清国の朝鮮に対する影響力を排除
日本政府は、日本の経済進出に抵抗する朝鮮政府との対立を強めていきます。
1894(明治27)年、朝鮮で減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争)が起こると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵。日本もこれに対抗して出兵しました。
日清両国は朝鮮の内政改革をめぐって対立を深め、日清戦争が始まりました。戦局は日本の圧倒的優勢のうちに進み、日本が勝利しました。
1895(明治28)年4月、「下関条約」が結ばれて講和が成立。下関条約では、清国に朝鮮の独立を認めさせました。
ロシアと朝鮮の接近
宗主国であった清国の敗北は、朝鮮の外交政策にも影響を与えました。その間に朝鮮半島への影響力を高めようとしたのがロシアで、ロシアの支援で日本に対抗する動きが強まり、親ロシア政権が成立しました。
この政権は、日本に対抗する意味もあって、1897年国号を「大韓帝国」(韓国)と改めました。
日露戦争:ロシアの朝鮮に対する影響力を排除
1904~1905年の日露戦争に勝利した日本は、「ポーツマス条約」でロシアに、韓国に対する日本の指導・監督権を全面的に認めさせます。
そして1905年、アメリカ、イギリス両国に日本の韓国保護国化を承認させました。
これらを背景として日本は、同年中に「第二次日韓協約※」を結んで韓国の外交権を奪います。そして首都の漢城に韓国の外交を統括する「統監府」を設置し、伊藤博文が初代の統監となりました。
※第一次日韓協約は日露戦勝中の1904年に結ばれています。日本が推薦する財政・外交顧問を韓国政府に置き、重要な外交案件は事前に日本政府と協議することを認めさせました。
韓国の内政も操る
これに対し韓国皇帝高宗(こうそう)は、1907年に列国に抗議をしたものの無視されました(ハーグ密使事件)。
この事件をきっかけに日本は韓国皇帝高宗を退位させ、ついで第三次日韓協約を結び、韓国の内政権をもその手におさめ、さらに韓国軍を解散させました。
これまでも植民地化に抵抗して散発的に起こっていた義兵運動は、解散させられた韓国軍の元兵士たちの参加を得て本格化しました。
伊藤博文暗殺から韓国併合へ
日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧しましたが、そのさなかに前統監の伊藤博文が、ハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根(あんじゅうこん/アンジュングン)に暗殺されます。
日本政府は憲兵隊を常駐させるなどの準備の上に、1910年に韓国併合を強要して韓国を植民地化しました(韓国併合)。
漢城を京城(けいじょう)と名を改め、そこに統治機関としての「朝鮮総督府」(ちょうせんそうとくふ)を設置し、初代総督に陸軍大臣の寺内正毅(てらうちまさたけ)を任命しました。
日本に都合の良い土地の接収
朝鮮総督は当初現役軍人に限られ、警察の要職は日本の憲兵が兼任しました。
総督府は、土地に対する課税の基礎となる土地の測量や所有権の確認を朝鮮全土で実施しましたが、その際に所有権の不明確などを理由に広大な農地・山林が接収され、その一部は東洋拓殖会社や日本人地主などに払い下げられました。
土地の接収により多くの朝鮮農民が土地を奪われて困窮し、一部の人々は職を求めて日本に移住するようになりました。
激しくなる独立運動を力で弾圧
第一次世界大戦後、「民族自決」の原則のもとで東欧に多数の独立国家が誕生しました。このような国際世論の高まりを背景に、東京在住の朝鮮人学生、日本支配化の朝鮮における学生・宗教団体を中心に、朝鮮独立を求める運動が盛り上がり、1919年3月1日、京城(ソウル)で独立宣言書朗読会が行われたのを機に、朝鮮全土で独立を求める大衆運動が展開されました(三・一独立運動)。
この運動はおおむね平和的・非暴力的なものでしたが、朝鮮総督府は警察・憲兵・軍隊を動員して厳しく弾圧しました。約1年間の鎮圧行動で、朝鮮人に数千人の死者と5万人近い検挙者が出たといわれています。
日本政府はこの事件に衝撃を受け、武断政治をある程度緩め、同化政策に転換していきました。
朝鮮総督と台湾総督について文官の総督就任を認める官制改正を行い、朝鮮における憲兵警察を廃止するなど、植民地統治方針について若干の改善を行いました。
台湾
1871年、台湾に漂流した琉球(現在の沖縄)の人々が、現地人に殺害される事件が発生しました。
清国は現地民の殺傷行為の責任を負わないとしたため、軍人や士族の強硬論に押された日本政府は、1874(明治7)年に台湾に出兵しました(台湾出兵)。
これに対し清国はイギリスの調停もあり、日本の出兵を正統な行動と認め、事実上の賠償金を支払うことになりました。
日清戦争の結果台湾を手に入れた
日本は1894~1895年の日清戦争に勝利した結果、下関条約で清国から台湾・澎湖(ほうこ)諸島を譲り受けました。
1895(明治28)年、海軍軍令部長の樺山資紀(かばやますけのり)を台湾総督に任命し、統治を始めますが、島民の頑強な抵抗を武力で鎮圧していきました。
台湾総督には当初陸海軍の大将・中将が任命され、軍事指揮権のほか、行政・立法・司法に力を入れました。
台湾と澎湖諸島青=台北(たいぺい)、緑=澎湖諸島
台湾総督府では、社会改革を推進し、土地調査事業に着手し、土地制度の近代化を進めました。また、台湾銀行や台湾製糖会社が設立されるなど、産業の振興がはかられていきました。
一方で、貧農などの民衆は日本の支配への抵抗を続け、たびたび反日武装蜂起を起こしました。日本はこれに対して徹底した弾圧でのぞみました。
樺太・千島
幕末以来ロシアとの間で懸案となっていた樺太(からふと=サハリン)の帰属については、日本は北海道の開拓で手いっぱいであったため、1875(明治8)年、「樺太・千島交換条約」を結んで、樺太に持っていた一切の権利をロシアにゆずり、そのかわりに千島全島を領有しました。
1904~1905年の日露戦争に勝利した日本は、「ポーツマス条約」で北緯50度以南の樺太と付属の諸島を譲り受け、沿海州とカムチャッカの漁業権を日本に認めさせました。
太平洋の島々
太平洋に浮かぶ大小の島々は、大航海時代以降、ヨーロッパ各国が進出し、植民地化していきました。ドイツは1880年代以降、ビスマルク諸島、カロリン・マリアナ・マーシャル・パラオの各諸島(ドイツ領南洋諸島)を獲得していました。
ドイツ領南洋諸島
青=ビスマルク諸島
緑=カロリン諸島
ピンク=マリアナ諸島
オレンジ=マーシャル諸島
茶色=パラオ諸島
1914年~1918年の第一次世界大戦の結果、講和条約である「ヴェルサイユ条約」が結ばれました。日本はヴェルサイユ条約によって、赤道より北にある旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。
中国東北部(満州)
中国東北部の植民地化への経緯は
をご覧ください。
まとめ
明治維新を経て近代国家の窓を開けた日本は、他国の領土を自分のものにするという階段を一歩ずつ、しかし確実に上がっていきました。その端緒となったのが朝鮮半島と台湾です。
そしてさらに中国大陸や、南方に植民地を獲得していき、ロシアとの関係では北海道の北に当たる樺太の南半分と、千島列島を領土として確定させました。
日中開戦以降、戦争目的を正当化し、さらなる資源地帯への侵攻を可能にするため、「大東亜新秩序」「大東亜共栄圏」というスローガンが語られることになります。
本項は「詳説日本史B(山川出版社)」「詳説世界史B 81 世B 304 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用」を元に構成しました。
photo: wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:台湾総督府(現中華民国総統府)