これまでの2回で、日本軍が満州に傀儡国家を建設し、さらに南へ勢力を及ぼそうとしている状況を見てきました。今回、いよいよ日本と中国が全面戦争に突入する過程を描いていきます。
目次
日中戦争へのカウントダウン
天津軍の増強
日本陸軍は、中国での担当地区を、万里の長城より北側および満州は関東軍が、長城の南側を「天津(てんしん)軍」(支那駐屯軍)が担当すると決めていました。
天津軍は2000名規模で駐留していましたが、1936(昭和11)年5月、5000名へ増強されることになりました。その理由は以下のとおりです。
- 中国のはるか西方を移動していると考えられていた中国共産党の軍が、北京や天津のある河北省の西隣である山西省に突如姿を現したため、これに対抗すること
- 急増する日本居留民を保護すること
- 天津軍司令官を関東軍司令官並みの、天皇が直接任命する「親補職」(しんほしょく)に格上げし、関東軍の華北に対する介入を阻止すること(日本陸軍内での勢力争い)
この増派により、それまでも強いものがあった中国側の抗日運動はよりいっそう激しさを増しました。
原因はこの増派だけではありませんが、この時期、中国では日本人や日本関係者がたびたび殺害されたり襲撃されるテロ事件が頻発するようになっており、それがさらに現地日本軍および日本国民の姿勢を硬化させ、より中国に対して高圧的に出るという循環を繰り返していました。
盧溝橋事件
増強された天津軍は、北京からわずか4キロの豊台という場所に駐留することになりました。
近くには中国軍も駐屯しており、たびたび双方の兵による小競り合いが起きていました。
そして1937(昭和12)年7月7日、演習中の日本軍に対して中国側から発砲があったことが原因で、日中双方の小競り合いが再び発生。
数日にわたって銃撃の応酬が続いたものの、11日に現地で停戦協定が結ばれました。
事件の発端となった発砲が誰から行われたのか、今に至るまで真相は不明です。
この局地的な衝突をめぐり、陸軍部内では、事件を拡大させないように処理する考えと、この機会を使って中国に一撃を与え、もし戦争に発展するならそれも構わないとする考えが対立しました。
事件不拡大派の意見は、ソ連に対する備えとして満州を固めることが重要であり、中国との戦争に踏み込めば、広大な国土を股にかけた泥沼の戦いになる可能性が高く、そうすれば満州の安定もおぼつかなくなるというものでした。
一方で拡大派は、満州のみならず華北の資源も日本は必要としており、いずれ満州を超えて領有すべきであること、また、中国(蒋介石率いる国民党)は日本軍が本気になればすぐに降参するであろうこと、さらに、満州でとどめておいても蒋介石軍はいずれ日本に戦いを挑んでくるだろうから、早めに撃退しておいた方がよいことなどが主な主張として挙げられました。
そして、これまでも小競り合いはあったものの、この機会が重視された理由としては、以下の二点が考えられます。
一点目は、盧溝橋事件の約1か月前、ソ連では共産党軍幹部の大規模な粛清(しゅくせい=反対派を処刑や追放すること)が行われているという情報が伝えられており、これによりソ連軍は混乱しており、対外的に軍事行動を起こす余力はないであろうと見られていたこと。
二点目は、1935年からのドイツ・イタリアの急速な軍拡・侵略によってヨーロッパ諸国はアジアの紛争に手出しする余裕はないだろうという読みがされていたことがあります。
現地では停戦協定が成立したものの、日本国内では拡大派の意見の方が強く、停戦協定と同じ11日、日本政府は中国大陸へ大規模な兵の派遣を発表。
以降、日中双方は様々な思惑が入り乱れ、情報は錯そうしましたが、着実に大規模な軍事衝突の階段を上っていきました。
盧溝橋周辺の現地では、中国側も基本的には停戦協定に沿った対応をしていたものの、日本軍に手出しをする小規模な事件が後を絶ちませんでした。
25日、電線を修理中の日本軍に対して攻撃があり、翌26日には北京城前を通過中の日本軍に対し、城壁の上から中国軍が機銃掃射を行う事件が発生。
これによりついに日本は総攻撃を決定します。
通州事件
29日、冀東自治政府下の通州(つうしゅう)で、現地の警察である保安隊(中国人によって構成)が現地日本人200名以上を虐殺する事件が発生(通州事件)。
これは、かねてから日本支配に不満を持つ中国人保安隊員が、25日、26日の上記の北京城外での小競り合いで中国軍が日本軍を撃退したとの報(中国人をけしかけるために誇張されたもの)に勢いを得て行ったものです。
盧溝橋事件の位置関係青=盧溝橋
オレンジ=豊台
紫=北京城
緑=通州
進む中国の対日反抗準備
これまで日本に一方的に攻められていた中国側ですが、着々と日本へ対抗する準備が進んでいました。
国民党・共産党の提携
中国では、各地に割拠する軍閥(そのうちの代表的存在が蒋介石の国民党)のほか、共産主義による理想国家の建設を目指す「共産党」が勢力を増しており、資本主義を前提とする国民党(国民政府)と共産党は激しく対立していました。
国民政府は日本軍とも対立していましたが、最大の敵は共産党であると考えていました。
しかし、国民政府、共産党が互いに戦っていては日本を利するだけであるとの考えから、日本を中国から駆逐するまでの間、国民政府と共産党は手を結ぶべきであるという考えが生まれます。
盧溝橋事件前年の1936(昭和11)年12月以降、国民政府と共産党の間の内戦は実質的に停止し、翌1937年9月、両者は正式に協力体制を確認しました。これを「第二次国共合作」(こっきょうがっさく)と言います(第一次国共合作は1924年~1927年)。
このように、中国では分裂状態が解消されつつあり、国民党を中心として国内の団結が進んでいき、日本の侵略への抵抗はより力強さを増していきました。
ドイツ流の軍備
蒋介石は1934(昭和9)年よりドイツ人顧問団を招き、戦略・戦術を中国将兵へ教育させ、さらにドイツ製兵器を大量に輸入することで武器の刷新化を進めていました。
以下で説明する第二次上海事変の際、上海と長江流域には精鋭部隊8万人を含む30万人の「中央軍」が配置されていました。
対する日本側は陸軍が到着するまでは、海軍特別陸戦隊の約5000名がいるのみでした。
上海周辺を守る中国側陣地はドイツ人顧問団の指導の下かなり建設が進んでおり、日本軍は強大な兵力と準備された堅固な守備に苦しい戦いを強いられることとなりました。
日中全面戦争を決定づけた「第二次上海事変」
日本軍は華北で総攻撃を決したものの、中国側との停戦に向けた外交交渉は断続的に続けており、まだ早期停戦の余地は残されていました。
それが後戻りできない全面戦争へと変わったのは、揚子江(長江)の下流、上海に戦闘が飛び火したところからです(第二次上海事変。第一次は1932年に起きている)。
上海は早くから西洋諸国が進出し、拠点を築いた地域で、日本からも多くの居留民と兵がいました。その上海で盧溝橋事件後、中国軍の動きが活発になり、日本は上海の居留民の引き揚げを命じました。
そのさなかの8月9日、日本海軍の将兵2名が中国軍に殺害される事件が発生(大山事件)。
この事件により、日本側は態度を硬化させたうえ、居留民を保護する目的で日本は上海への派兵を決定しました。
中国軍は日本が要求したイギリス・アメリカによる停戦協定の仲立ちを拒否。
居留民保護を目的として日本海軍の軍艦が揚子江を上ったことが中国軍を刺激したのか、日本軍へ機銃掃射を浴びせかけ、日本海軍陸戦隊との間で戦闘が起きた(13日)ほか、14日には航空機で日本海軍の艦艇と、フランス租界※および共同租界へ激しい空襲を浴びせ、民間人にも多数の犠牲者を出しました。
翌15日には、日本海軍爆撃機(九六式陸上攻撃機)が反撃として長崎と台湾からはるばる海を渡り、上海周辺の中国空軍基地を爆撃しました(渡洋爆撃)。
※租界…外国人居留地のこと。租界を管理する国が行政権、治外法権を有する(中国領だが、租界の中で起きた事件、犯罪等に中国警察や司法は関与できない)。
盧溝橋事件が発生した当初、蒋介石はまだ日本との全面戦争を考えていませんでした。
しかし、紛争が拡大する過程で日本との対決を覚悟するようになり、盧溝橋事件の10日後の7月17日、以下のような演説を行いました(最後の関頭演説)。
満州が占領されてすでに六年、それに続いて塘沽停戦協定を強制され今や敵は北京の入り口である盧溝橋にまで迫っている。もし盧溝橋が占領されれば北京は第二の瀋陽(奉天)になってしまうし、そうなれば河北省、察哈爾(チャハル)省も東北四省(満州)になるであろう。さらに南京が北京の二の舞を演じないわけがあろうか。この事変をかたづけるかどうかが最後の関頭(かんとう)※の境目である。我々はもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、祖先・先人が残してくれた歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望しているが、ひとたび最後の関頭に至れば徹底的に抗戦するほかない。
(「日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか (中公新書)」より抜粋。カッコ内筆者補足)
※関頭…重大な分かれ目。瀬戸際。(出典:goo辞書「関頭」)
一方で、この演説は「和平が絶望に陥る一秒前ででも、我々はやはり和平的な外交の方法によって、この事変の解決をはかるよう希望する」と続きます。この時点では完全に外交による解決を諦めたわけではありませんでした。
しかし、第二次上海事変発生後は、蔣介石は完全に日本と徹底的に戦う姿勢を固めました。上述したように、欧米による調停を拒否し、なおかつ盛んに日本軍等に対して攻撃を加えました。
8月15日、国民党政府は総動員令を発して大本営を設け、蒋介石は陸海空三軍の総司令に就任。全国的な臨戦態勢に入りました。
さらに同日、今度は日本政府が「盧溝橋事件ニ関スル政府声明」として、「帝国としてはもはや我慢の限度に達し、中国軍の道理に反する荒々しい行為を征伐して懲(こ)らしめ、南京政府(国民党)の反省を促すため、断乎(だんこ)たる措置を取る」という趣旨の声明を発表しました。
日本軍部は上海における戦闘拡大を望んでいませんでしたが、中国軍の激しい攻撃を受け、後には引けなくなってしまいました。
このようにして、日本と中国はついに全面戦争へと踏み出すことになりました。
まとめ
明治維新後、日本は朝鮮半島をめぐって清国、ロシアと戦争を起こし、その勝利によって中国大陸への足掛かりを得ました。
強者が、自国に有利な条件を弱者に押し付け、直接・間接の支配によって利益を得る世界的な「植民地帝国主義時代」の末期に誕生した新生日本は、自衛のためと自国の経済的欲求を満たす両方の目的で、朝鮮半島はもとより中国大陸を蚕食(さんしょく=蚕が桑の葉を食うように、他の領域を片端からだんだんと侵していくこと)していきました。
日本の方向を決定づけた一つ目の決定的な出来事は、満州事変を起こし、満州国を誕生させたことです。
それまで中国大陸では都市や鉄道沿線を押さえるだけであったのが、現在の日本の約3倍にわたる広大な土地を支配するにいたりました。
このことで、中国はもとより、国際社会を敵に回し、国際連盟脱退という重大な結末を迎えました。
そして二つ目の決定的な出来事は、盧溝橋事件に端を発する中国との紛争拡大を止められなかったことです。
当初日本軍(およびそれを支持した政府・世論)は、中国は日本が本気を出せば早々と手を挙げるだろうと見立てていました。
しかし、そのころには中国側も反抗の準備を着々と進めており、以前の弱体の中国軍とは違っていました。さらに、長年の侵略行為により、日本に対する不満は極度に高まっており、日本との本格的な戦争に極めて高い意欲を示していました。
そして国民党・共産党が手を組んだ中国との終わりの見えない戦いを強いられ、やがてその出口を探し求める中で、アメリカやイギリスとの戦争が避けがたいものとなっていきます。
【関連ページ】
より深く知りたい方へ:書籍のご案内
1.日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか (中公新書)
本書は満州事変から南京陥落までの歴史の流れの裏側を丹念に描いています。特に、軍事行動や謀略と並行して行われていた外交交渉、平和工作の数々をあぶり出し、戦争は回避できたのではないかという視点を強く持って書かれています。歴史の基本的な流れを理解していて、より深く当時の日中間の政治交渉や、日本側関係者(軍部・政府など)でどのような駆け引きがあったのか、知りたい方にお薦めの一冊です。
2.昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)
本書は、昭和陸軍のあゆみを、中心的な役割を果たした人物の発想や行動を軸に描いています。特に、永田鉄山、皇道派・統制派、石原莞爾、武藤章、田中新一、に注目しています。今回紹介した日中戦争にいたるまでの流れはもちろん、その後の日米開戦にいたるまで、日本陸軍の昭和期における思想と実際の意思決定が手に取るようにわかる一冊です。
この項は
- 日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか (中公新書)
- 日中戦争史 (KAWADEルネサンス)
- 昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)
- 満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)
を元に構成しました。
photo: wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:防毒面を着用し、突撃する日本海軍陸戦隊