この項では、「師団」を中心として日本陸軍の部隊編制の概略と、部隊にはどのようなものがあったのか、また軍隊では欠かせない階級を見ていきます。
目次
戦時と平時で異なる編制
戦時には「総軍」「方面軍」「軍」などが設置されましたが、平時から常備されていた部隊編制の最大の単位として、「師団」(しだん)がありました。
部隊編制は時代と共に変わっていったので、本項では主に日中戦争~太平洋戦争の頃の部隊編制について言及します。
師団とは
「師団」(しだん)は、平時では最大の戦略単位です。どんな戦況にも対応できるよう、様々な種類の部隊がその中に含まれています。
師団は師団長(中将)によって指揮されます。どの師団にもまったく同じ種類の部隊があったというわけではありませんが、どの師団も同じような編制になっていたのが歩兵部隊です。
歩兵連隊
師団には四個の歩兵連隊(れんたい)が置かれていました。歩兵連隊は連隊長(大佐)が指揮します。このうち二個歩兵連隊ををたばねた旅団(りょだん)が置かれ、旅団長(少将)が指揮しました。師団には二個旅団がありました。
師団兵力
師団の兵力は平時は1万人前後ですが、戦時は2万人程度になります。1個歩兵連隊は1500人前後で、4個歩兵連隊で約6000人になります。
師団兵力の約6割は歩兵部隊でした。あとの4割を砲兵、騎兵、輜重(しちょう)兵(補給・輸送を担当)、工兵、通信隊、衛生隊などの部隊で分け合っていました。基本的にはこれら各種部隊は歩兵部隊を支援する役割を持っていました。
近衛師団
皇居を防衛する専門師団は「近衛(このえ)師団」と呼ばれました。兵士は全国から選抜して編成され、近衛兵になることは、本人も家族も大きな名誉と誇りを感じるものでした。
日中戦争後に変化した師団編制
日中戦争では中国大陸の広大な範囲で戦闘を行うため、より多くの師団が必要となりました。そのため、日中戦争が始まって以降師団の編制方法が変わりました。
歩兵連隊を一個減らして三個とし、旅団を廃止して「歩兵団」の下に置くことになりました。これを三単位師団といいます。歩兵連隊が1個浮くため、新しい師団を編成できるようになりました。
三単位師団と従来の四単位制とでの人員の違いは、以下のようになります。
四単位制のまま日中戦争に動員された第三師団(名古屋):人員約2万5千人、馬約8千頭
三単位で太平洋戦争初期に動員された(フィリピン攻略)第16師団(京都):人員約1万5千人、馬約2500頭
三単位にすると約1万人程度の削減になることが分かります。
中国の占領地の警備を主な任務とする師団は、簡素化され「治安師団」または丙(へい)師団と呼ばれました。7個師団が編成され、例として第32師団(東京)だと人員は約1万3千人、馬2000頭。
このように、比較的小規模な師団をいくつもつくることで、急激に増加する需要にこたえようとしました。
日中開戦後急増した師団数と兵力
日中戦争前までの陸軍兵力は17個師団を中心に各種部隊合わせて約25万人です。日中戦争が始まると次々に師団が増設され、太平洋戦争が始まるまでの4年半に35師団も増設されました。
太平洋戦争が始まってからは、さらに75個師団が編制されました。さらに、上陸してくると予想されたアメリカ軍との本土決戦に備え、1945(昭和20)年2月以降に40個師団が編制されました。
郷土密着の歩兵連隊
戦時に限らない常設の師団は17個であり、東京を除き3、4県に1個の割合で配置されました。
常設師団の歩兵連隊は沖縄県を除く各県に最低1個は配置されていました。兵士は本籍地によって入営する歩兵連隊が決まっていました。
多くの場合、歩兵連隊は同じ県の出身者で占められることが多く、団結の源泉となりました。
例外は沖縄県です。最後まで歩兵連隊が置かれることはなかったので、沖縄県出身の兵は九州各県の歩兵連隊に入営しました。
沖縄はもともと琉球王国だったところを1879(明治12)年沖縄県として強引に日本領土に編入させました。
そのため反対運動が起きたので、軍と警察で抑え込みました。沖縄に歩兵連隊を置くと反乱が起きるのではないかと軍は恐れ、沖縄県出身の兵士は分散されることに。言葉の違いが大きかったこともあり、兵営内で大変いじめられたそうです。
任務別の各種部隊
師団には歩兵以外に様々な部隊がありました。主なものは騎兵、砲兵、工兵、輜重(しちょう)兵などです。
これらの部隊要員は、3県から4県の範囲からなる「師団管区」から選抜しました。それぞれ専門性が歩兵に比べると高く、能力的に向いている兵を選ぶ必要があったためです。
砲兵
様々な種類の大砲を操り、遠くの敵を攻撃します。大砲の大きさや種類によって、野砲兵(やほうへい)、山砲兵(さんぽうへい)、重砲兵(じゅうほうへい)など、様々な種類がありました。
野砲:山など障害物がない平原(満州など)で、できるだけ遠くに飛ばす大砲。
山砲:山など障害物を飛び越して、反対側にある山陰(やまかげ)の敵陣地を砲撃できる大砲。
野砲兵、山砲兵を合わせた人員は、太平洋戦争終戦時で約33万人。
重砲:口径155ミリ(=大砲の発射口の直径が15.5㎝)を超え、かつ重量8トンを超える大砲。重砲兵連隊の人員は太平洋戦争終戦時、約10万。
工兵
堅固な陣地を造ったり、橋をかけたり、ジャングルに道を造ったり、船に兵や弾薬を積んで川を行き来したりする技術部隊です。
太平洋戦争では太平洋の島々が戦場になったので、兵員を上陸させたり、島伝いに移動させたり、島に派遣した舞台に補給したりする船舶工兵部隊が増強されました。
もともと工兵連隊の一部だったのが鉄道連隊で、占領地鉄道の警備や保守・管理、戦場で軽便鉄道を敷設・運用したりしました。
輜重兵
食糧や弾薬の運搬などを行います。アメリカと比べて自動車産業があまり発達していなかった戦前の日本では、軍での輸送には馬を使うのがほとんどでした。
日中戦争半ばから自動車を配備された部隊もありましたが、太平洋戦争が終わるまで自動車が主流になることはありませんでした。
野砲の配備された師団の輜重兵連隊は約1000頭、山砲の配備された輜重兵連隊には約2700頭もの馬が配備されました。
馬は去勢されたオスです。自動車は一度に1.5トンの物資を輸送できましたが、馬の場合は最高が2頭で引く4輪車で、400㎏の荷物を運びました。
騎兵
日中戦争前まではどの師団にも騎兵連隊があり、歩兵・砲兵・騎兵は「三兵」といって、師団の中核を担っていました。
騎兵は機動性や偵察能力の高さが特徴でしたが、第一次世界大戦以降、自動車、装甲車、戦車、さらに飛行機まで登場し、騎兵の優位性が失われていきました。
師団に直属する騎兵連隊は日中戦争開始後、順次「捜索(そうさく)連隊」へと改編され、馬ではなく装甲車や軽戦車で武装しました。
騎兵専門部隊も、1931(昭和6)年の満州事変以降は自動車や装甲車が配備されるようになりました。装甲車隊が戦車隊となり、太平洋戦争に入ると戦車師団に発展していきました。
航空隊
第一次世界大戦以降、航空機はその性能向上に伴い、どんどん戦場での活躍の場を広げていきました。日本陸軍も例外ではなく、太平洋戦争開戦時(1941年12月)時点で以下のような陣容でした。
機種別陣容
戦闘機隊…50個中隊※
軽爆撃機隊…37個中隊
重爆撃機隊…22個中隊
偵察機隊…24個中隊
推進・輸送・補充隊…15個隊
合計…148個中隊
※飛行中隊は平均で戦闘機隊が12機、爆撃機隊が9機~12機、偵察機隊が10機前後
地域別陣容
本土(日本列島)…15個中隊
満州(中国東北部)…38個中隊
中国(満州を除く。万里の長城以南)…13個中隊
南方…82個中隊
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