マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦の相次ぐ大敗北で、日本海軍は航空兵力のほとんどを失いました。レイテ沖海戦では空母部隊が消滅しています。
また、南方の資源輸送路が遮断(しゃだん)されつつあり、航空機や艦船を動かす燃料や、それら兵器を生産する原料も満足に得ることが出来なくなりました。
そのような折り、硫黄島を1945(昭和20)年3月下旬に陥落させたアメリカ軍は、沖縄への侵攻を始めます。
目次
特攻しかない-日本航空戦力最後の一撃
日本軍は1944年10月に起きたフィリピン・レイテ沖海戦で、初めて爆弾を積んだ航空機が敵艦に体当たりする「特別攻撃」(特攻)を行いました。
フィリピンでの戦いでは、特攻攻撃は多くのアメリカ軍の艦船に損傷を与え、小型空母(護衛空母)を撃沈するなど、被害の割には大きな戦果を生み出すことができました。
そのため、当時完全に手詰まりだった日本軍は特攻攻撃に大きな期待を寄せることになります。沖縄へアメリカ軍の大軍が侵攻してきた際、もはや正攻法では日本に勝てる見込みはなく、特攻攻撃が頼みの綱となっていました。
💡 レイテ沖海戦の詳細はこちら ➡ 戦艦武蔵沈没す―レイテ沖海戦(1944.10.23-25)
「菊水作戦」と「航空総攻撃」
アメリカ軍が沖縄方面での上陸作戦を開始した1945年3月下旬より、日本軍は主に九州の基地から航空機による反撃を行います。
3月18日~21日の4日間で、のべ1,000機を超えるアメリカ軍機と、600機を超える日本軍機が戦闘を繰り広げ、日本側はアメリカ軍空母5隻に損傷を与えるなどしました。
しかし日本軍はこの戦いで約120機を失い、そのうち半数の60機が特攻機でした。
その約10日後の4月6日、日本海軍は「菊水(きくすい)作戦」※を、陸軍は「航空総攻撃」を開始します。
両作戦とも主に九州の複数の航空基地から飛び立った航空機による特攻攻撃で、6月22日の作戦終了までに海軍、陸軍それぞれ11回にわたり、合わせて約1,800機が特攻に出撃。約2,600名が戦死しました。
この作戦でアメリカ軍の駆逐艦、給油艦、揚陸艦など、合計で数十隻を撃沈し、空母や戦艦などの主力艦にも少なくない損傷を与えました。
日本軍の最後の航空戦力を振り絞った沖縄戦での空の特攻は、アメリカ軍に物理的、心理的な被害を与えました。
しかし、巡洋艦、戦艦、空母は一隻も撃沈できませんでした。このことからも分かるように、与えた被害はアメリカ軍の戦力からいえばごくわずかであり、戦局に影響を与えるようなものではありませんでした。
本作戦後半は、まともな戦闘機や攻撃機を投入できなくなり、速度が遅い練習機も投入することになります。
特攻機のほとんど(9割以上)は敵艦に突入する以前に撃ち落とされ、運よく体当たりが成功しても、1機で艦船を撃沈できることはほとんどありませんでした。
※菊水…14世紀に活躍した武将楠木正成(くすのきまさしげ)の家紋「菊水紋」に由来。後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府を倒した楠木正成は最期に死を覚悟の戦(湊川(みなとがわ)の戦)に挑んだ忠臣とされ、正成を称える挿話は戦前は学校の教科書にも掲載されていた。
飛行場を使用不能にしようとした「義烈空挺隊」
4月1日のアメリカ軍の沖縄本島上陸早々、北(きた)・中(なか)の両飛行場はアメリカ軍によって奪取されます。そしてアメリカ軍はさっそくこの飛行場に航空機を集め、日本本土攻撃の足掛かりを築きました。
両飛行場をアメリカ軍によって使えないようにするため、日本軍は九州から爆撃機を飛ばし、飛行場へ強行着陸したのち、機関銃や手りゅう弾で武装した搭乗員によって、空港の敵機や滑走路を破壊するという計画を立てます(義烈空挺隊(ぎれつくうていたい))。
5月24日、九州の空港から12機の爆撃機が飛び立ち、1機が北飛行場への着陸に成功。8人の搭乗員は敵機を破壊し、飛行場を襲撃します。アメリカ兵は2人が死亡、18人が負傷しました。
搭乗員は全員戦死しました。この作戦は最初から体当たりを目的とする特攻攻撃ではありませんが、生還を期さないという意味では特攻の一形態と言えます。
ロケット特攻機「桜花」
日本軍は1944年以降、特攻専用兵器を相次いで投入しました。そのひとつが「桜花」(おうか)です。
桜花は一人乗りの飛行機(グライダー)で、推進力は当時の最新技術であったロケットでした。海軍の大型攻撃機「一式陸上攻撃機」(一式陸攻)の下に吊り下げられて目標のそばまで運ばれ、切り離されてからはロケットで飛び、そのまま目標に体当たりします。
零戦や各種攻撃機に爆弾を搭載し、そのまま体当たりを行う攻撃では、運べる弾薬の重量が限られる(500㎏程度まで)うえに、突入の際の速度があまり早くならないために、破壊力が思ったよりも大きくないのが日本軍の悩みでした。
そこで、より大きな爆弾を搭載し、高速度で目標に体当たりできる特攻兵器として開発されたのが桜花です。
桜花は1.2トンの爆薬を積むことができ、最高速度は時速約650kmでした。他の攻撃機の倍以上の爆薬を積み、零戦の100㎞以上速い速度で突入することで、大きな戦果を上げることが期待されました。
しかし、桜花を目標近くまで運ぶ一式陸攻は、軽量化のために装甲が薄く、敵機の攻撃ですぐに引火してしまうことから、「一式ライター」などと日本兵からも皮肉を込めて呼ばれる機体でした。
そのためほとんどの機体がアメリカ軍の艦船に近づく前に撃ち落とされ、6月22日の作戦終了までに、55機が出撃、撃沈したアメリカ軍艦船は駆逐艦一隻にとどまりました。
特攻攻撃を拒み続けた芙蓉部隊
特攻は、建前としてはパイロットが自発的に志願するというものでしたが、日本軍に残された唯一の効果的な攻撃手段として、次第にパイロットたちは特攻を拒むことはできなくなっていきました。
そのような中、特攻作戦への参加を拒み、あくまで通常攻撃を通した珍しい部隊がありました。
難易度の高い夜間飛行の技術に長けた、夜間偵察部隊の隊長であった美濃部正(みのべただし)大尉(後に少佐に昇進)は、特攻攻撃を打診する上層部に反対し、夜間爆撃を行う専門部隊の創設を主張します。
美濃部大尉は独自に装備や戦術に工夫を凝らした部隊を作り上げ、富士山の別名にちなんで「芙蓉(ふよう)隊」と名付けました。
芙蓉部隊は技術の高いパイロットを多く抱え、アメリカ軍が占領した後の北・中飛行場を爆撃して使用を妨害したり、特攻攻撃の護衛に活躍しました。
しかし、爆撃機と攻撃機合わせて50機程度の部隊であったため、アメリカ軍の攻撃力を大きく損なうことはできませんでした。
命運を賭けた大バクチに負けた日本軍
日本軍の航空戦力の総力を挙げた菊水作戦、航空総攻撃は多大な犠牲を払ったものの、アメリカ軍に大きなダメージを与えることはできませんでした。
数千人の搭乗員の命と数千機の航空機によって仕掛けたこの「大バクチ」とも言える総攻撃に失敗した日本軍の航空戦力はいよいよ底を尽き、まともに戦える戦闘機・攻撃機、そして熟練したパイロットは極めて限られていくことになります。
関連書籍のご紹介
特攻作戦、そして沖縄戦への理解を深めるための書籍をご紹介します。
特攻-戦争と日本人 |
沖縄決戦 |
特別攻撃「特攻」とは何だったのか。その起こりから各戦闘の描写、関わった人がどんな思いでいたのかまで、詳細に丁寧に描写。特攻の全体像を手早く知りたい人にオススメ。 |
沖縄の戦いを、豊富なビジュアルと多角的な検証で解説する。日米双方の戦略、戦術を専門家が解説。沖縄戦の軍事的側面を細部まで知りたい人にオススメ。 |
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*この項は特攻――戦争と日本人 (中公新書)、沖縄決戦、菊水作戦(Wikipedia)を元に構成しました。
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アイキャッチ画像:知覧特攻平和会館の四式戦闘機「疾風」(はやて)一型。By Goshimini (Own work) [CC BY-SA 4.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], via Wikimedia Commons