1945(昭和20)年3月末、ついに琉球列島にアメリカ軍が侵攻を開始し、日本軍は航空機による大規模特攻作戦で抵抗しました。
わずかに残された連合艦隊の艦艇も、特攻出撃の命が下されました。日本海軍の象徴であった戦艦大和は、「一億総特攻」の先駆けとして、万が一にも生還を期すことのできない作戦へ出発しました。
目次
沖縄戦開始前の日本艦隊の状況
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦の相次ぐ大敗によって、日本海軍には有効に戦える軍艦はわずかしか残されていませんでした。
戦艦「大和」(やまと)※を中心とするいくつかの艦艇や、艦載機を失ったわずかな空母群は瀬戸内海に、そして重巡洋艦部隊は南方に停泊していました。
南方の部隊はまとまった戦力を有していましたが、フィリピンが奪取されたことにより海上封鎖が決定的となり、日本へ戻ることもできなくなり、それぞれの艦隊は孤立します。
※戦艦大和…真珠湾攻撃直後に完成した日本の戦艦。世界最大の戦艦だった。同じ型の戦艦には「武蔵(むさし)」がある。武蔵は1944(昭和19)年10月にフィリピン・レイテ沖の海戦でアメリカ軍の攻撃により沈没。
💡 戦艦大和の性能や戦歴についてはこちら ➡ 戦艦大和―日本海軍の栄光と悲劇の象徴―
水上特攻の発令
1945(昭和20)年3月19日には瀬戸内海などの港湾施設にアメリカ軍による空襲が行われ、残された軍艦はさらに打撃を受けました。
アメリカ軍による沖縄攻撃を迎え撃つべく空の特攻作戦が行われることになると、連合艦隊首脳部は、残された軍艦も最後の力を振り絞って敵に突撃するべきだという考えから、大和を中心とした艦隊による「水上特攻」を検討するようになります。
最初から生還の見込みのない作戦に、日本海軍の象徴であり、最後の切り札として温存していた大和をもつぎ込まなければならないほどに、当時の日本軍は追いつめられていました。
この作戦の実施の決定には、連合艦隊司令部内にも反対の意見は多かったものの、「せざるを得ない」という事情が強く働いたのです。その理由は、
- 陸軍は沖縄で、そしてその後の本土で、決死の作戦を行おうとしている。
- 海軍の航空戦力も既に沖縄方面で大規模な特攻攻撃を行っており、4月6日からの「菊水作戦」も予定されている。
というもので、戦略・戦術上の合理的理由というよりも、艦艇部隊だけ温存されていてよいのか、というプレッシャーに耐えかねたと言えます。
また、その決定を後押しする現実的な理由としては、
- 燃料が不足していて、温存していたところで今後満足な作戦行動はできない。
- 護衛の航空機が出せないので、今後敵艦隊・空母部隊に対して有効な作戦ができる見込みはない。
- そのため、停泊地の呉周辺で海上砲台として、または九州方面で敵をおびき寄せるくらいの働きしかできない。本来期待していた敵艦に打撃を与えることは不可能。
というものでした。連合艦隊内部にも反対の強かった「水上特攻」も、このような理由から実現が決定されます。
この作戦は、綿密に練られた大作戦と呼べるものではなく、4月6日からの大規模特攻作戦に間に合わせるために急きょ4月1日に提起され、すぐに実行に移されました。
そのため、大和が沖縄へ到着する可能性を高めることの検討も十分ではなく、また航空特攻部隊との調整も不十分なうちに実施されることになりました。
作戦概要と実施の決定
本作戦の目的は、4月6日から始まる「菊水作戦」に合わせ、沖縄本島の海岸に乗り上げ、砲台となってアメリカ軍を攻撃するというものです。
既に沖縄周辺の制空権・制海権を握られており、沖縄に近づく前にかなりの確率で撃沈されてしまうであろうことは、誰の目にも明らかでした。
大和が所属する第二艦隊司令長官伊藤整一中将以下、第二艦隊の参謀や艦長たちはこぞってこ反対しましたが、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将に「どうか一億総特攻の先駆けになってもらいたい」と言われ、「そうか、それなら分かった」と、伊藤長官は了解しました。
戦艦大和の最期
1945(昭和20)年4月6日午後3時、戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」(やはぎ)、その他駆逐艦8隻が沖縄に向け、山口県の徳山湾を出撃します。
鹿児島県南部を過ぎたあたりで、大和一行の「水上特攻部隊」(正式には「第二艦隊・第一遊撃部隊」)は、行先を隠すためにわざと西に一直線に進みました。
鹿児島県の南岸「坊ノ岬」(ぼうのみさき)沖を通り過ぎ、東シナ海をしばらく進んだ後、アメリカ軍偵察機に発見されました。
姿が見つかった以上、行先を隠す必要はなくなったと判断、一路沖縄へ目指して南下を始めました。
そして偵察機からの連絡を受けたアメリカ軍航空部隊が襲い掛かったのです。
第二艦隊・第一遊撃部隊(水上特攻部隊)の進撃ルート(概略)
緑=出発地点 徳山湾(山口県)
紫=坊ノ岬
オレンジ=第一遊撃部隊(水上特攻部隊)の進路、星マーク=大和の沈没地点
3次にわたり総計約400機の航空機による攻撃を受け、約2時間の戦いで、大和は魚雷約10本、爆弾8発を受けました。
大和は片側(片舷)が浸水すると反対側に注水(ちゅうすい=水を注入すること)し、バランスを取り続けられるように設計されています。
しかし、片側に集中的に魚雷を浴びせるアメリカ軍機の戦法によって、注水の限界を超えてしまいました。そして大和は遂に転覆。その瞬間、弾薬庫に引火し、大爆発を起こしてそのまま沈没していきました。
この戦いで大和、矢矧、駆逐艦4隻が沈没し、約3700人が戦死しました。アメリカ軍の損害は、わずかに航空機の損失11機、損傷47機、搭乗員14名が戦死又は行方不明、負傷者は4名でした。
日本本土停泊の連合艦隊 大型艦艇の特攻出撃および損害
艦種 | 艦名 | 特攻出撃 | 沖縄特攻時の損害 |
戦艦 | 大和 やまと |
○ | 沈没 戦死2740名 |
長門 ながと |
× | - | |
空母※ | 隼鷹 じゅんよう |
× | - |
葛城 かつらぎ |
× | - | |
鳳翔 ほうしょう |
× | - | |
海鷹 かいよう |
× | - | |
軽巡洋艦 | 矢矧 やはぎ |
○ | 沈没 戦死446名 |
駆逐艦 | 朝霜 あさしも |
○ | 沈没(詳細不明) 行方不明326名 |
霞 かすみ |
○ | 沈没 戦死17名 |
|
磯風 いそかぜ |
○ | 沈没 戦死20名 |
|
浜風 はまかぜ |
○ | 沈没 戦死100名 |
|
雪風 ゆきかぜ |
○ | 戦死3名 | |
初霜 はつしも |
○ | 戦死なし | |
涼月 すずつき |
○ | 戦死57名 | |
冬月 ふゆつき |
○ | 戦死12名 |
※当時空母に艦載機はなく、出撃する意味はなかった。
日本海軍の最後の切り札であり、精神的支柱でもあった大和をあっけなく失ったこの戦いは、アメリカ軍の航空戦力を一時的に引き付けましたが、アメリカ軍はさらに1000機以上の航空機をこの地域に配備しており、この作戦が果たした効果はほとんどありませんでした。
一方、この戦いで実質的に日本海軍連合艦隊は消滅しました。
戦艦大和の最期をもっと知るために
書籍:戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)
元戦艦大和乗り組み員の吉田満氏(故人)による記録小説です。複数の人からの伝聞や一部創作も入っているという指摘もあり、全てが事実というわけではないようですが、戦艦大和水上特攻直前の様子がありありと伝わってくる作品です。戦艦大和の最後の様子、そしてそれに向かう兵士の気持ちを知りたい方はぜひご一読ください。(文章はカタカナ交じりの当時の表記になっています)
映画:男たちの大和/YAMATO
大和最後の戦いが、一人ひとりの兵たちの目線でよみがえります。大迫力の再現映像で迫る大作。ぜひご覧ください。
💡 詳しい作品紹介はこちら ➡ 【映画】男たちの大和/YAMATOー兵士の目線で戦場の「リアル」が迫ってくる
男たちの大和/YAMATO (400円)
この項は沖縄決戦とオールカラーでわかりやすい!太平洋戦争を元に作成しました。
photo: wikipedia, public domain
アイキャッチ画像:アイキャッチ画像:試運転中の戦艦大和