原爆による破壊のほとんどはきのこ雲が出現する前、さく裂の瞬間に行われました。私たちがよく目にする、上空から撮影されたきのこ雲が立ち上る映像は爆発から3分後の様子です。
「ピカドン」の瞬間をとらえた映像はありません。この項では、原爆投下・10秒の衝撃 (NHKスペシャルセレクション)と「知られざる衝撃波~長崎原爆・マッハステムの脅威~」(NHKスペシャル)を元に、原爆が爆発するまさにその瞬間、何が起きるのか、専門家による検証を追っていきます。
💡 原爆投下の全体像を先に確認したい方はこちらをご覧ください ➡ 【概要】広島と長崎への原爆投下
本項は刺激の強い画像があります。ご注意ください。
目次
「ピカドン」の瞬間、何があったのか
日米の多くの専門家が検証した結果、広島が壊滅するのに要した時間はわずか10秒。きのこ雲が遠くから見える時には、広島市と長崎市は破壊しつくされた後でした。
破壊の様相は次の3つの段階のように、時間と共に刻々と変わっていくことが分かりました。
- 第一段階 0秒~100万分の1
秒放射線が人々を襲う まだ原爆はさく裂していない - 第二段階 100万分の1秒~3秒
さく裂の瞬間、火球が発する熱線と衝撃波 - 第三段階3秒~10秒
衝撃波によって半径4㎞の広島市が壊滅する
【第一段階:100万分の1秒】
<放射線>
広島に投下された原子爆弾は、ケース内部の2つのウラン燃料を投下後に高速で合体させることで、爆発を起こす仕組みです。
2つの燃料体が合体した瞬間をゼロ秒とします。燃料体の合体後、爆弾内部では核分裂が始まっていますが、爆発は起こっておらず、ウランはまだ爆弾の中です。
しかし、合体から爆発が起こるわずか100万分の1秒の間に、放射線を帯びた「中性子線」は爆弾のケースを突き抜け、地上に降り注いでいたのです。
爆心地では、放射線が最も大量に降り注いでいました。爆心地のすぐ横の地域の民家の中にいた人は、8グレイを浴びたと考えられます。人間が浴びれば助からない量です。
同時にガンマ線も浴びていました。爆心地から数百mの範囲にいた人たちは熱線や爆風がなくても誰も生き残らなかっただろうと考えられます。
爆心地から半径1kmの地点では、二人に一人が死亡する量の放射線が降り注ぎました。
外傷がほとんどなくても死亡することがありました。強い放射線を浴びた人たちは脱毛や赤紫色の斑点が発生します。
【第二段階:100万分の1秒~3秒】
<火球の出現>
原子爆弾はさく裂すると火の玉「火球(かきゅう)」が発生します。火球は放射線と熱線を放ちながら、以下の段階を追いながら急速に膨張していきます。
- 爆発直前…内部の温度が250万℃にも上昇。
- 100万分の1秒後…原爆はさく裂し、放射線が空気とぶつかり青白く発光する。
- 100万分の15秒後…温度は40万℃。太陽表面温度の70倍近い高温。この時火球の直径は20mになっている。
- 0.2秒後…火球は直径310mまで成長し、温度は太陽の表面温度とほぼ同じの6000度。火球が最も明るく見える瞬間。この時から地上での熱線の影響が出始める。
- 2.5秒後…火球が激しく膨張するため、それに押されて空気が押し出され衝撃波(ショック・ウェーブ)となる。この時火球は1900度~2200度。
火球が放つ熱線は、あまりの高温のために影を焼き付けます。熱線に続いて衝撃波が襲います。
爆心地付近の「原爆ドーム(広島産業奨励館)」の屋根はは銅でできおり、一瞬で溶けてしまいました。
熱線が原爆さく裂後0.2秒後に発生し、それから0.8秒後に衝撃波が到達。爆発から1秒で広島産業奨励館は崩れ落ち、現在の原爆ドームが残ったと考えられます。
【第三段階:3秒~10秒】
<衝撃波の広がり>
原爆さく裂後、ものすごい速さで衝撃波が広島の街を駆け抜けました。衝撃波が到達するまでの時間は以下のとおりです。
3秒…1.5㎞
7.2秒…3㎞
10.1秒…4㎞
爆心地から1.5kmの高校では、壁に1平方メートルあたり3.3tの衝撃が加わったと考えられます。
ここで被爆した人の髪は燃え、体が舞い上がり地面に叩きつけられました。建物が残っても部屋の中では衝撃波で死者が出ます。
人や家具が舞い上げられるためです。頑丈な建物にいてもこれは同じです。貯金局では、職員67人と勤労学生17人が死亡しました。
衝撃波の前に熱線によって地表が暖められ、チリや構造物が舞い上げられています。
衝撃波は舞い上げられた物を破壊しながら進むため、破壊力はさらに大きくなるのです。4.3km地点では、衝撃波は窓を突き破り、壁一面にガラスが突き刺さっていました。
火球の光は約10秒で消え、その後熱せられた地表の水蒸気がきのこ雲を形成しました。
20分後には放射性物質を含んだ黒い雨が降り出しました。広島の都市を壊滅させた破壊は、わずか10秒の間に行われたのです。
長崎を襲った衝撃波「マッハステム」
同じく原爆が投下された長崎でも、放射線、熱線、爆風が街を襲いました。1945年だけで原爆により7万人が亡くなっています。広島と異なるのは、死因の約半数は爆風によるものと思われることです。
爆心地から500mにあった城山国民学校は、頑丈な鉄筋コンクリートの建物でしたが、138人が死亡し、生き残ったのはわずか20人でした。遺体は家族に知らせることもないまま校庭で荼毘に付され(焼却され)ました。
長崎に投下された原爆「ファットマン」は広島原爆(リトル・ボーイ)の1.3倍の破壊力がありました。
爆風によって鉄筋コンクリートの建物が壊滅的な被害を受けたのは、広島のおよそ10倍。衝撃波の壁=「マッハステム」が地表を走り、あらゆるものを破壊していきました。
原爆さく裂から0.9秒後、マッハステムが城山国民学校に到達。窓の格子から秒速10mで飛び出たガラスが、人々に突き刺さりました。
アメリカは爆風で人々を殺傷することを主眼に置いていた
アメリカは、1945年4月から始まった原子爆弾の「目標検討委員会」で、マッハステムに関する議論を行っています。
この時、「マッハステムが起こす影響を事前に想定しておくように」「どのくらい離れた場所にいる人間まで殺害できるのか予測せよ」という指示が出ていました。
アメリカの原爆研究者によれば、アメリカ軍は原爆の威力としては、放射能の影響についてはほとんど検討しておらず、むしろ爆風を最も重視していたとのことです。
目標検討委員会の焦点は民間の建物を破壊することにありました。日本の軍需工場の中には家庭で飛行機の部品を作るような小さなところがたくさんあるとアメリカは考えていたため、アメリカ軍は民間と軍の建物を区別していませんでした。
アメリカ軍は、住宅を全壊させる圧力を最大にするための爆発高度を算出。それが高度約500mでした。
そしてその高度で炸裂した場合、爆心地から500m付近で爆風=マッハステムは最大の強さになったのです。
長崎は爆風の影響調査の格好の材料だった
戦後、アメリカは城山国民学校で誰がどこでどのように亡くなったのか、個人まで特定する非常に精密な調査をしています。
長崎で集めたデータはその後のアメリカの核開発に生かされました。広島と比べて火災の影響が少なかった長崎では、爆心地からの距離と爆風の影響の関係を調べるのに適していたのです。
アメリカにとっての「長崎原爆の意味」は、アメリカの防衛関係者の次の言葉に集約されていると言えるでしょう。
実験用に家を作ることはできても、都市を丸ごと作ることはできないのです。
本項は、「原爆投下・10秒の衝撃 (NHKスペシャルセレクション)」と「知られざる衝撃波~長崎原爆・マッハステムの脅威~」(NHKスペシャル)を元に構成しました。
原爆が都市を破壊しつくした10秒をより深く知るために
原爆投下・10秒の衝撃 (NHKスペシャルセレクション)では、日米の最先端の科学者が集結し、原爆投下から10秒間の間に何があったのか、様々な専門分野から検証を行っています。極めて短時間のうちに、想像もできないような破壊を起こす原子爆弾の姿がまざまざとよみがえってきます。人類が手にした科学技術の頂点が、このような無慈悲な兵器に用いられたことは、人類の歴史の極めて重要な事件と言わざるを得ません。
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