1945(昭和20)年8月14日、日本は「ポツダム宣言」受諾(じゅだく=受け入れること)を連合国に通告し、降伏しました。その後東アジアに広く展開していた日本軍は順次停戦をしていきます。
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
9月2日、東京湾に浮かぶアメリカ軍戦艦「ミズーリ」上で日本の降伏調印式が行われ、正式に太平洋戦争および第二次世界大戦が終結しました。これに先立つ8月30日、日本の占領政策のトップに任命されたダグラス・マッカーサーが神奈川県の厚木基地(当時は海軍の飛行場)へ降り立ちました。
この時から始まる連合国による日本の占領統治は、現在にいたる戦後日本の骨格を築きました。明治維新と並ぶ重大な国家の改革となりましたが、それは外国人の主導によって行われたものでした。 同時に、アジア・太平洋の広大な範囲に及んだ戦争の後処理(戦後処理)が始まることになります。
戦後処理は決してスムーズに進んだわけではなく、この過程でも多くの悲劇が生まれてしまいました。この中には、今も未解決のまま残されている課題も数多くあります。 ここでは、戦後直後から1972(昭和47)年の沖縄返還までを駆け足で見ていきます。
目次
太平洋戦争の後処理
復員(ふくいん)と引揚げ(ひきあげ)
戦争が終わり、戦時体制にあった将兵を平時に戻すことを「復員」といいます。また、戦時中日本の占領地や植民地に住んでいた日本人が日本本土に戻ることを「引揚げ」といいます。
敗戦時、海外には日本の軍人が約350万人、一般の居留民が約310万人いました。敗戦と同時に、復員と引揚げが始まりましたが、アジア・太平洋の広大な地域に散らばった660万人もの人々が日本に帰るのは一大事業でした。
戦後2年以上経った1947年末までに復員・引揚げを終えたのは約624万人。依然として36万人もの人が海外に取り残されており、その中でもシベリアで強制労働に就かされていた強制抑留者は終戦から10年以上経った1956(昭和31)年頃、ようやく完全な引揚げを終えました。
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
中国残留邦人(孤児)等
終戦後ソ連の満州侵攻などの混乱により、家族と離れ離れになり、日本に帰国できず中国や樺太(からふと、サハリン)に残った人たちが大勢いました。長い年月を経てようやく日本に戻ってくることのできた人たちも、幼い頃に日本語の教育を受けることができずにいたことから、日本社会へ定着するのに多くの困難が待ち受けていました。
戦争孤児
戦争の影響で親を失ったり、生き別れになったりした子どもたちが戦後直後は12万人いたと言われています。子どもたちは行く場所もなく、駅などで物乞いをしたりして生きていきました。その後子どもたちは自治体によって強制的に収容され(狩り込み)、施設へ送られましたが、そこでも飢餓や体罰などが待っていました。
シベリア抑留
1945年8月9日に満州へ侵攻したソ連は、約57万人の日本軍将兵や公務員等をシベリアへ連行し、強制的に労働させました。厳しい寒さと飢え、不十分な医療によって約7万人が命を落としました。
海外戦死者の遺骨収容
太平洋戦争では、日本軍の死者は約310万人で、海外での死者は約240万人にのぼりました。そのうち、2020(令和2)年2月末までに収容された遺骨は約128万柱(はしら=遺骨の単位)。
およそ112万柱の遺骨は海外の戦地に埋もれたままになっています。海に没した遺骨約30万柱、相手国の事情で回収が難しい遺骨約23万柱を除く約59万柱は、国および民間団体等によって収容が進められています。
民間人等への補償
戦後、日本政府は日本の旧軍人・軍属に対しては年金の支払いを行ってきました。いっぽうで、民間人の戦争被害者へはほとんど補償してきませんでした。現在でも空襲被害者などが補償を求めて立法化などの運動を行っています。
💡 詳しくは ➡ 【概要】旧軍人・軍属、民間人被災者の戦後補償-放置される民間人
人びとの暮らし
終戦直後、空襲によって住居を失った人々は、防空壕や焼け跡に建てた粗末な小屋でなんとか雨風邪をしのいでいました。鉱工業生産は戦前の1/3にまで落ち、以前のようには仕事がなくなったうえに、将兵の引き揚げや復員によって人口が膨れ上がったため、失業者が急増しました。
1945年は米の総収量が例年の3割減と大幅に減少するなど、記録的な凶作で、食糧不足は深刻でした。配給が遅れたり、そもそもなくなってしまったりしたので、都市の民衆は農村へ買い出しに行ったり、食糧統制から外れ非合法に取引をする「闇市」(やみいち)で買い物をしたり、または家庭で作物を育ててなんとか飢えをしのいでいました。
次は ➡ 戦犯裁判・GHQによる占領政策