戦犯(せんぱん)裁判
終戦後、連合国は日本の戦争指導者や将兵に対する裁判を行いました。ポツダム宣言には「連合国は日本人を奴隷化したり、滅亡させたりする意思はないが、戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。」という内容がありました。
💡 ポツダム宣言の詳細は ➡ ポツダム宣言―連合国の降伏勧告
裁判には、「平和に対する罪」(A級)、「人道(じんどう)に反する罪」「戦時国際法違反」(BC級)の大きく2種類に分かれ、総じて戦争犯罪人(戦犯)を裁く「戦犯裁判」と呼ばれました。
A級戦犯裁判
A級戦犯の裁判は「東京裁判」と呼ばれ、東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校跡で行われたことからこのように呼ばれました。1946(昭和21)年4月、A級戦犯として28名が起訴(きそ=訴えること)され、約2年半の審理の結果、1948(昭和23)年11月に東条英機(とうじょうひでき)以下7名が死刑、病死など3名を除く残りの18名全員が7年~終身の禁固刑に処されました。
昭和天皇が起訴されるか注目されましたが、天皇を処罰することによる社会の不安定化を恐れたマッカーサーは、天皇を戦犯容疑者に指定せず、むしろ占領支配に利用しようとしました。大日本帝国憲法化で「大元帥」とされ、陸海軍の指揮権を握っていた天皇は、戦犯裁判で処罰されることを免れました。
BC級戦犯裁判
「通例の戦争犯罪」に該当する者をB級、戦争行為以外の大量殺戮(さつりく)・虐待など「人道に対する罪」に該当する者をC級と呼びましたが、実際の裁判ではB級とC級がはっきり区別されて使われなかったため、ひとまとめにBC級と呼ばれます。
東京裁判とは異なり、BC級裁判は東アジア各地で1945(昭和20)年10月から1951(昭和26)年4月まで開かれました。総勢5,700名が訴えられ、うち984名が死刑、475名が無期刑、2,944名が有期刑、1,018名が無罪となりました。
日本ではBC級戦犯裁判はあまり注目されませんが、A級よりもはるかに多くの将兵たちが、日本から遠く離れた地でA級よりもはるかに粗末な裁判で裁かれました。「上官の命令は天皇陛下の命令」とされた日本軍において、命令に逆らうことはできず、意思に反して捕虜の虐待や民間人の殺害をせざるを得なかった兵たちも多く、命令に従ったがためにかつての敵国から戦争犯罪人として死刑に処されることは、どれだけ不条理に感じたでしょう。
A級・BC級の戦犯裁判は、戦前・戦時中の日本の数々の行いを明るみに出した一方、その裁判のあり方は今でも議論の的になっています。
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GHQによる占領政策
戦争に負けた日本は、アメリカを中心とする連合国によって7年間占領統治されました。この間に、それまでの政治体制や制度は大きく変わることになります。その占領政策の中心を担ったのはGHQという組織でした。
GHQとは
GHQ※は「連合国軍最高司令官総司令部」と言い、アメリカ陸軍出身のダグラス・マッカーサー元帥をトップとしていました。
※GHQ…正式には「GHQ/SCAP」と略され、これは「General Headquarters (総司令部), the Supreme Commander (最高司令官)for the Allied Powers(連合国軍)」の略。
GHQは名目上は連合軍の日本占領統治のための組織ですが、実質的にアメリカが組織しました。GHQの上部には連合国11か国(のちに13か国)によって運営されていた「極東委員会」という組織がありましたが、こちらもアメリカ政府の意識が強く反映されていました。
したがって、日本の占領統治は、実質的にアメリカの意思によって行われていました。その中でもマッカーサーの持たされていた権限は強大で、占領統治の全権をもち、日本政府の閣僚の任命権・罷免(ひめん=職を辞めさせること)権も持たされていました。
昭和天皇を東京裁判の被告としないことにしたのも、マッカーサーの意向によるものです。このようにアメリカが日本の占領統治に強大な権限を持てたのは、日本を降伏に追い込んだ最大の戦力であったためです。
占領統治の基本方針
GHQの占領統治の基本的な方針には、「間接統治」(かんせつとうち)と、「非軍事化・民主化」という柱がありました。
間接統治
同じ敗戦国でも、ドイツの場合はイギリス、フランス、アメリカ、ソ連の4か国に分割して占領され、各国の軍隊が直接統治しました。
一方で、日本は上述の通り実質的にアメリカによる単独支配であったことに加え、進駐軍(日本に留まった連合国の軍隊)による直接統治ではなく、GHQが日本政府に指令を出し、その指令に従って日本政府が政治を行う「間接統治」という方法が取られました。
非軍事化・民主化
GHQの日本統治は、ポツダム宣言によって方向づけられていました。ポツダム宣言には、以下の内容がありました。
- 日本の軍国主義指導者を取り除き、日本の戦争遂行能力が粉砕されるまで、日本は連合国により占領される。
- 民主主義を尊重し、言論、宗教、思想の自由、基本的人権の尊重は確立されなければならない。
これらの内容に基づき、GHQは日本軍を解体し、軍国主義が再び盛り上がらない国へと変貌させ、さらに民主的な国家とするための数多くの改革を日本政府に実行させました。
💡 ポツダム宣言の詳細は ➡ ポツダム宣言―連合国の降伏勧告
GHQの主な政策
上述のとおり、GHQの政策には日本の「非軍事化」「民主化」という日本の柱がありました。ここではそれぞれについて概要を見ていきます。
非軍事化政策
【日本軍の解体】
国の内外に配備された陸海軍将兵約789万人の武装解除および復員を進めました。
💡 復員については こちら
【神道指令】
戦時期の軍国主義・天皇崇拝の思想的基盤となった国家神道を解体するため、政府による神社・神道への支援・監督を禁じました。
【公職追放】
1946(昭和21)年1月、戦争犯罪人・陸海軍軍人・超国家主義者・大政翼賛会(たいせいよくさんかい)の有力者らを公職(こうしょく=公務員や議員など)から追放する指令を出しました。
1948(昭和23)年5月までに、政治・経済・公務員・メディアやジャーナリストに至る各界の指導者21万人が戦時中の責任を問われ、職を追われました。
【その他】
軍需産業の禁止、船舶保有の制限、日本国内の産業設備を解体・搬出して中国・東南アジアの戦争被害国に提供する現物賠償(お金ではなく物で賠償すること)を行いました。
民主化政策
【経済の民主化】
財閥解体(ざいばつかいたい)
財閥とは、「家族制度的組織による同族支配のもとに、持株会社や銀行などを中心として主要な経済部門のすべてにわたり多角的経営を行なった企業集団のこと」(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)で、主なものに三井・三菱・住友・安田などがあります。
戦前・戦中には国家権力と密接に結びつき、日本経済に多大な影響を及ぼしたため、GHQは財閥の解体を進めました。
寄生地主制(きせいじぬしせい)
戦前・戦中の日本の農業は、土地を所有している「地主」が、土地を細分化して「小作人」(こさくにん)に貸して耕作させ、高額の「小作料」を取り立てる方法が多く取られました(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。
小作人に寄生する地主ということで、「寄生地主制」と呼ばれます。この方式だと小作人はどれだけ働いても貧しい生活が続き、農民層の貧困を解決することが海外へ侵略する動機付けのひとつとなったことから、GHQは寄生地主制を撤廃する「農地改革」を進めました。
【教育の民主化】
1945(昭和20)年10月、教科書の不適当な記述の削除と軍国主義的な教員の追放(教職追放)を日本政府に指示しました。修身(道徳)、日本史、地理の授業が一時禁止されました。
日本史では、建国神話からではなく、考古学的記述から始められるようになりました。 1947(昭和22)年、「教育基本法」が制定。教育の機会均等や男女共学の原則がうたわれると同時に、義務教育は6年から9年に延長されました。
大学も大幅に増設されて大衆化し、女子大学生も増加しました。1948(昭和23)年、自治体ごとに選挙で選ばれる教育委員会が設けられ、教育行政の地方分権化が図られました。
【政治改革】
戦時中治安維持法違反の容疑などで投獄されていた共産主義者らの出獄がGHQの指令によって認められ、日本共産党が合法政党として活動を開始。総選挙にかつての戦争協力者が立候補するのをきらったGHQは、公職追放指令によって翼賛選挙※の推薦議員をすべて失格としたため、政界は大混乱に陥りました。
※翼賛選挙…1942(昭和17)年4月、戦時中に唯一行われた国政選挙。議会を完全に掌握しようとした東条英機内閣は、「翼賛政治体制協議会」を組織し、推薦候補、非推薦候補に振り分けました。投票率は全国平均 83%強の驚異的高率となりましたが、これは隣組などの末端組織を動員したことによります。当選者は推薦者が 80%強の 381名、非推薦者は 85名でした。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
1945年12月、衆議院議員選挙法を大幅改正。これまで男性のみに認められていた選挙権が女性にも認められ、満20歳以上の男女に選挙権が与えられた結果、有権者数はこれまでの3倍近くに拡大しました。
1946(昭和21)年4月に行われた戦後初の総選挙では、39名の女性議員が誕生し、5月には戦前からの親英米派外交官であった吉田茂(よしだしげる)が、公職追放処分を受けた鳩山一郎に代わり第一次吉田内閣を組織しました。
【憲法改正】
ポツダム宣言には「憲法を改正せよ」とは書いてありません。しかし、大日本帝国憲法は、ポツダム宣言が述べる民主主義、言論・思想・宗教の自由、基本的人権の尊重を保障するものではありませんでした。
1945年10月、GHQは幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣に憲法改正を指示。内閣は憲法問題調査委員会を政府内に設置しましたが、改正試案が依然として天皇の統治権を認める保守的なものだったため、GHQはみずから改正草案(マッカーサー草案)を急きょ作成し、1946(昭和21)年2月、日本政府に提示しました。
政府はこれにやや手を加えて和訳したものを政府原案として発表。改正案は衆議院と貴族院で修正可決されたのち、日本国憲法として1946年11月に公布され、翌1947(昭和22)年5月3日から施行されました。
GHQの草案には日本の民間の憲法研究会の意見も参照されたほか、政府案の作成や議会審議の過程で追加・修正がなされるなど、GHQが単独で決めたわけではありません。大日本帝国憲法からの特に重要な変更点には以下があります。
- 主権在民・平和主義・基本的人権の尊重 の3原則
- 国民が直接選挙する国会を「国権の最高機関」とする
- 天皇は政治的権力をもたない「日本国民統合の象徴」となる(象徴天皇制)
- 第9条第1項で「国際紛争を解決する手段」としての戦争を放棄し、第2項で「前項の目的を達するため」戦力は保持せず、交戦権も認めないと定める
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