日本を襲う銀色の怪鳥-B-29とはどのような飛行機か

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太平洋戦争時、連合国軍による日本本土空襲の主役は、アメリカ陸軍航空隊の「B-29」でした。愛称を"Superfortress"(スーパーフォートレス=超空の要塞、ちょう・そらのようさい)と呼ばれ、他に類を見ない高性能爆撃機として、太平洋戦争終盤の日本に大打撃を与えました。
※B…"Bomber"=爆撃機の頭文字

ボーイング社の工場で生産されるB-29
ボーイング社の工場で生産されるB-29

 

B-29の特徴

長距離飛行

B-29は爆弾を目いっぱい積んでも片道3,000㎞を飛行することができました。マリアナ諸島サイパン島から東京まで約2,400㎞、広島市・長崎市まで約2,500㎞であり、マリアナ諸島を抑えられることで、本州の大部分がB-29の爆撃可能範囲内に収まりました。

 

高い高度でも性能を発揮

高度1万m近くでも高速で安定した飛行ができます。日本軍高射砲(上空を飛ぶ航空機を撃ち落とすたための大砲)は弾が届かないか、届いても当てるのは難しい高度でした。迎撃(げいげき、迎え撃つこと)のための日本軍戦闘機はこの高度では安定した飛行ができず、効果的な対戦ができませんでした。

これを可能にしたのは、高性能・高出力のエンジンと、当時はまだ珍しかった「与圧」(よあつ)システムを取り入れたためです。B-29の機体内部は与圧され、空調も完備していたので、搭乗員は軽装で地上とほとんど変わらない状態で作戦を行うことができました。

※与圧…機体内部を密閉し、圧力をかけることで地上に近い気圧に機体内部を保つこと。私たちが飛行機で高度1万m以上を飛んでも地上と変わらない状態で過ごせるのは、機体内部が与圧されているため。

 

大量の爆弾

B-29は機体を大きくすることで、多くの爆弾を積むことができるようになりました。日本軍の代表的な爆撃機の5~10倍の爆弾を積むことができます。

この機体を大量に揃えることで、一度の空襲でより大きな効果を与えることが可能になりました。本土空襲では、数十機~数百機の編隊で押し寄せ、大量の爆弾を各都市に降らせました。終戦までに2,000機以上が配備され、繰り返し出撃しました。

台湾を空襲するB-29
1944年10月18日台湾を空襲するB-29。期待内部に格納された爆弾を雨の様に降らせている。

 

多数の機銃とハイテク装備

B-29には日本軍爆撃機の倍の10以上の機銃(きじゅう=機関銃・マシンガン)が搭載され、近寄る敵機を撃墜しました。

また、それまでの爆撃機では、担当の兵が直接機銃を操作・射撃しましたが、B-29では遠隔操作をすることになりました。

その結果、全方位を見渡せる部屋の中で機銃を操作することが可能になりました。また新たに開発された高性能照準器を備え、弾の命中率が飛躍的に高まりました。

B-29 A型と日本陸海軍の爆撃機との性能比較

B-29と日本陸海軍の爆撃機(海軍には爆撃機という類型はないが、爆撃機としても多用されていた「一式陸攻」で比較)の性能を比較してみます(以下表を参照)。一見して気付くのは、B-29の巨大さでしょう。

大馬力のエンジンを4基積み、翼の端から端までの長さ(全幅)は約2倍、胴体の長さ(全長)は約1.5倍あります。

また、燃料等を全て積んだ時の重さ(全備重量)は約5倍もあります。それでいて、日本軍機よりも高い高度を速く飛ぶことができ、航続距離も2~3倍はあります。

日本軍が開発することができなかった、大馬力かつ高高度でも燃焼効率の高いエンジンと、高度な素材技術に支えられ、B-29は誕生しました。 


所属
陸軍 海軍 陸軍
機種名 B-29A 一式陸上攻撃機
22型
四式重爆撃機
「飛龍」
メーカー ボーイング  三菱重工業 三菱重工業
全幅 43.053m 24.879m 22.50m
全長 30.175m 19.972m 18.70m
全備重量 約63,000㎏ 12,500㎏ 13,765㎏
離昇出力 2,200馬力
×4基
1,850馬力
×2基
1,900馬力
×2基
最大速度 576㎞/h
高度7,620m時
437㎞/h
高度4,600m時
537㎞/h
高度6,090m時
実用
上昇限度
9,725m 8,950m 9,470m
航続距離 6,600㎞
爆弾7,250㎏時
2,500㎞
爆撃時
3,800㎞
武装 【機銃】
12.7mm×12
20mm×1
【爆弾】
最大9,072㎏
【機銃】
7.7mm×3
20mm×2
【爆弾/魚雷】
最大1,000㎏
【機銃】
12.7mm×4
20mm×1
【爆弾/魚雷】
最大800㎏
乗員 10名 7名 8名

出典:B-29A 連合艦隊の最期 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 10)、一式陸上攻撃機22型 大捷マレー沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 2)、四式重爆撃機「飛龍」武器・兵器でわかる太平洋戦争 (NICHIBUN BUNKO)
※サイズ・性能等は型式によって変わります。したがって、上記はあくまで参考としてください。

大量配備と大規模・反復攻撃

このような最新の技術の結晶であるB-29を、アメリカは終戦までに3,600機以上(各型の合計)生産し、マリアナ諸島の複数の基地を中心に2,000機以上を配備しました。マリアナ諸島では、サイパン島、テニアン島、グアム島などに合計7つの航空基地が設けられ、このうち5つがB-29用でした。

日本本土を爆撃するためにB-29が最初に配備されたのは、中国四川省の成都という町でした。ここから、北九州や「製鉄の街」である八幡地区の空襲を開始しました。1944(昭和19)年6月のことです。北九州地方への爆撃は9回行われました。

しかし、B-29による爆撃は、大量の燃料や爆弾などの補給物資を必要とします。西太平洋と東南アジア一帯は日本軍の勢力下であったため、成都への補給は、インド北部からヒマラヤ山脈を越えて行う必要がありました。そのため大変な労力がかかり、効率の悪いものでした。そのため、アメリカ西海岸から大平洋を船で渡り、直接補給ができるマリアナ諸島が注目されたのです。

マリアナ諸島からの空襲は1944年11月から本格的に始まり、以降1945(昭和20)年8月に日本が降伏するまで、全国に合計で260回にわたり攻撃を行いました。延べ1万7500機が出撃し、爆弾約12万個、焼夷弾約476万個、合計16万トンを投下しました。さらに、広島・長崎への原爆を投下したのも、専用に改造されたB-29でした。

広島へ原爆を投下したB-29 "ENOLA GAY"(エノラ・ゲイ)号
広島へ原爆を投下したB-29 "ENOLA GAY"(エノラ・ゲイ)号

 

本項は以下を基に構成しました。 

 

 


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photo:Wikimedia, public domain

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