戦争を遂行する中心的な組織である軍隊。この項では、日本の軍隊を動かしていた基本的な構造を見ていきます。
陸軍と海軍
太平洋戦争当時、日本の軍隊は大きく「陸軍」と「海軍」に分かれていました。陸軍はその名の通り主に陸上における任務を担当し、海軍は主に海上または海につながる河川(中国の長江(ちょうこう)など)での任務を担当します。
現在は「空軍」という第三の軍が多くの国で設けられていますが、太平洋戦争当時は日本軍やアメリカ軍には空軍はありませんでした(ヨーロッパ諸国では設けている国もありました)。
しかし、航空機部隊はあり、日本では陸軍と海軍それぞれに組み込まれていました。
統帥権
太平洋戦争の歴史を理解するうえで欠かせないのが、「統帥」(とうすい)という言葉です。統帥とは、軍隊を統率し指揮すること(デジタル大辞泉)。統率と同じ意味ですが、統帥は軍隊にだけ使う言葉です(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。
統帥する権利を「統帥権」(とうすいけん)といい、戦前の日本は天皇だけが持つ権利でした(天皇大権(たいけん))。
統帥(部隊を指揮)する機関を「統帥部」(とうすいぶ)と呼びます。
軍令と軍政
陸軍・海軍の活動は、「軍」というひとつの存在で完結しているものではありませんでした。
それぞれ軍の指揮と作戦立案を担当する「軍令」(ぐんれい=統帥)と、軍を維持するために必要な様々な仕事である「軍政」(ぐんせい)に分けられました。
軍政の仕事には、兵の募集、給料の支払い、制服の用意、兵器の準備、軍の予算編成など、様々な仕事がありました。
陸海軍それぞれの、軍令と軍政を担当する組織の名前およびトップ(責任者)の呼称は以下のようになっています。
陸軍 | 海軍 | |
軍令組織 | 参謀本部 (さんぼうほんぶ) |
軍令部 (ぐんれいぶ) |
軍令トップ | 参謀総長 | 軍令部総長 |
軍政組織 | 陸軍省 (りくぐんしょう) |
海軍省 (かいぐんしょう) |
軍政トップ | 陸軍大臣 | 海軍大臣 |
軍令と軍政をまとめて「省部」(しょうぶ)とも呼びます。「省」は陸軍省・海軍省のことで、「部」は「参謀本部・軍令部」のことです。
軍の指揮は事実上「参謀総長」と「軍令部総長」が執った
統帥権は形式上天皇にあることになっていますが、実際は天皇は軍を直接指揮することはありませんでした。
具体的には、各統帥部のトップである参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が、作戦計画を天皇に伝え※1、天皇がそれを裁可(さいか)※2します。その決定に基づき、実際の指揮は参謀総長・軍令部総長より下されました。
多くの場合、天皇は作戦内容に意見することはなかったため、事実上日本軍の指揮は参謀総長と軍令部総長が執(と)っていました。
※1…特に天皇に裁可を仰ぐことを「奏上」(そうじょう)と言う
※2 裁可…君主が臣下の提出する議案を裁決し、許可すること(デジタル大辞泉)
統帥権の独立
軍令を担当する参謀本部と軍令部は天皇直属であり、行政である内閣は作戦や軍隊の指揮に口を出すことはできませんでした。
これを「統帥権の独立」と呼び、総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣など内閣のメンバー(閣僚)が軍の作戦や指揮に口を出そうとすると、「統帥権の干犯(かんぱん)である」と参謀本部・軍令部員より激しく抵抗されました。
大本営
大本営(だいほんえい)とは天皇直属の統帥機関で、日本陸海軍の作戦および指揮を取り仕切りました。
初めて設置されたのは日清戦争の時で、当初は戦時のみの組織であり、戦争が終わると解散していました。日中戦争が始まった1937(昭和12)年より、常時設置されることになりました。
陸軍部と海軍部からなりますが、実態としては陸軍部は参謀本部、海軍部は軍令部でした。
大本営陸海軍部はそれぞれ「報道部」を持っており、作戦の実施状況などを発表した(大本営発表)。のちに統合され、「大本営報道部」となりました。
国家財政への影響
戦前・戦中の期間、軍の活動には、どのくらいお金が使われていたのでしょうか。
1931(昭和6)年の満州事変以前は、軍事費は国家財政のおよそ30%弱を占めていましたが、満州事変を境にぐんぐんと上昇していきました。
そして日中戦争開戦の年(1937年)には、70%にまで跳ね上がります。そのまま高いレベルを維持し続けたまま太平洋戦争に突入し、敗戦前年の1944(昭和19)年には、85%に達しました。
まさに国家のお金のほとんどを軍事に費やしていたことが見て取れ、いかに戦争一色になっていたかが分かります。
この項は「日本陸軍がよくわかる事典―その組織、機能から兵器、生活まで (PHP文庫)」、「帝国書院 統計資料 歴史統計 軍事費(第1期~昭和20年)」を元に構成しました。
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トップ画像:大本営会議の様子(1943年4月29日朝日新聞掲載)