原爆の被害―きのこ雲の下で何が起きていたのか

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原爆の投下によって、人々は筆舌に尽くしがたい苦しみに襲われました。きのこ雲の下で、人々はどんな苦しみに遭っていたのか。投下直後の広島の惨状を、NHKスペシャル きのこ雲の下で何が起きていたのか [DVD]原子爆弾―開発から投下までの全記録を元に追っていきます。

 

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本項は刺激の強い画像があります。ご注意ください。

 

エノラ・ゲイの出発 

1945(昭和20)年8月6日未明、「エノラ・ゲイ」号を含む3機のB29は、テニアン島を飛び立ち日本本土を目指しました。午前7時過ぎに日本軍のレーダーに発見されましたが、少数だったため日本軍の攻撃機は飛び立ちませんでした(当時日本には少数の敵に対して攻撃機を飛ばす余裕はありませんでした)。7時16分に広島地方には警戒警報が発令されましたが、16分後に解除されました。

MARIANAS: CREWS The ground crew of the B-29 "Enola Gay" which atom-bombed Hiroshima, Japan.  Col. Paul W. Tibbets, the pilot is the center.  Marianas Islands.
エノラ・ゲイ搭乗員。中央のパイプをくわえている人がポール・ティベッツ機長。

 

 その間にもエノラ・ゲイは着々と広島に接近します。8時12分、エノラ・ゲイは投下目標である広島市の中心部、相生橋(あいおいばし)を確認。相生橋はT字型をしており、目標として分かりやすかったといいます。8時15分、人口35万人(当時)の広島市についに原子爆弾は投下されました。

 

原爆投下

 投下後から45秒後、高度約580mで原子爆弾はさく裂しました。この高度での爆発は、投下した機体が逃げられる時間を稼ぎつつ、最も大きな被害を与えられる高度として計算されたものです。地表が高温で熱せられたために発生した水蒸気は「きのこ雲」を発生させ、1万2000メートル以上(富士山の約4倍)の高さに達しました。

 この原爆のさく裂で「熱線」が発生し、爆心地の地表温度は鉄をも溶かす3000度以上に達しました。そして秒速440m以上の爆風が発生し、その後地上では至る所で火災が起きました。爆心地から2㎞圏内はほぼ全ての建物が倒壊または破壊され、さらにその後の火災で全焼し、文字通り「壊滅地帯」となりました。

広島爆心地
広島の爆心地周辺の位置関係。写真の全域が完全に破壊された。

 

写真が伝える投下直後の惨状 

爆心地から2.3㎞の御幸橋(みゆきばし)で原爆投下から3時間後に撮影された写真が残っています。被爆した人々の肌は焼けただれ、髪は激しく縮れていました。服は破け、肌はむき出しで、人々の多くは裸足でした。

原爆 御幸橋 要クレジット
原爆投下3時間後に爆心地から約2㎞の御幸橋で撮影された写真。出典:「広島の視線」http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/GALLERY/show_image.html?id=30391571&no=12

 

 広島では1945年末までに原爆で14万人以上が亡くなりました。多くがやけどによるものです。人々には熱線による原爆特有のやけどが見られました。顔は黒ずみ、目や口の周りははれ上がっています。破れた服のようなものは溶けて剥がれ落ちた皮膚です。通常の生活では起こり得ないやけどが原爆によって起こされました。

 

痛みを感じる神経をむき出しにする「フラッシュバーン」 

アメリカは広島に原爆を投下した後、深刻なやけどが起きていることを知り、ひそかに研究していました。「フラッシュバーン」と呼ばれる特殊なやけどです。強力な熱線が体に当たると、皮膚に含まれる水分が一瞬で水蒸気に変わります。水蒸気で膨らんだ皮膚は、割けて垂れ下がります。この時激しい痛みに襲われるのです。

 皮膚は一番表側の表皮(ひょうひ)と、表皮の下の真皮(しんぴ)でできています。そして真皮には痛みを感じる「痛覚(つうかく)神経」が張り巡らされています。被爆者はフラッシュバーンによって表皮が剥け、真皮層があらわになり、痛覚神経がむき出しになってしまいました。痛覚神経は皮膚の真皮層を通ってきて、真皮層はどこでけがをしても痛いと言います。専門家は、この時人々は「人間が感じる痛みの中で最大の痛み」を感じていたのではないか、と考えています。

Victim_of_Atomic_Bomb_001 全身に大やけどをおった被爆者。8月7日撮影。
全身に大やけどを負った被爆者。8月7日撮影

 

 ある被爆した方が他の方の腕を触ったら、皮膚がずるっとむけて落ちてしまいました。両手を突き出して歩く人の様子が写っています。皮膚が溶けた腕がこすれないようにしているのです。そのようにして歩く人々はまるで幽霊のようであった、ぼろぼろの姿で皮膚が溶け、茶色の汚い雑巾をぶら下げたように歩いていたと、当時の様子を知る人は言います。爆風で目玉が飛び出たまま歩く人もいました。

 また、被爆した人たちは急激に体内の水分が失われたため、水を飲みたがりました。熱さと水欲しさで川には多くの人が飛び込んで死んでいきました。

 

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被爆の現場でも容赦なく行われる命の「選別」 

負傷者を救助するため軍のトラックが御幸橋にやってきたときのことです。郊外の病院に運ぶために、繰り返し火災の起きていない最前線のこの場所にやってきていました。トラックの荷台には負傷者を載せていました。幼い少女が荷台に乗ろうとすると、「コラ!女子供は後回しだ!」と兵隊が叱りつけ、トラックから離しました。戦争に役立つ若い男を優先していました。軍人に断られた少女は泣き叫びながら火災の方向へ走っていきました。

 

戦後7年経って公開された写真

御幸橋で撮影された写真は、戦後7年経ってからアメリカ政府によって公開されました。なぜ公開まで7年必要だったのでしょうか。写真は中国地方の新聞社の記者によって撮影されましたが、戦後アメリカ軍に奪われていました。一般市民を巻き込み、無残な死に方をした事実を知らせたくなかったため、戦後アメリカ軍は日本人が撮影した戦争被害の写真を没収しました。しかし終戦直後からアメリカとソ連の核開発競争が本格化し、戦後7年経つと、アメリカ人は共産圏からの軍事的脅威から守るためには核兵器が必要だと感じるようになっていました。そのため、アメリカはもうこの写真を公開しても問題は少ないだろうと考えたと思われます。

 

今も続く原爆の悲劇

原爆投下の日に亡くなった人のうち、最も多かったのは12歳と13歳でした。戦場に行った大人の代わりに様々な労働に駆り出されていたためです。壊滅地帯には中学生が約8000人いました。そのうち7割が亡くなりました。

写真に写っている方のうち多くは、被爆者として差別されることを恐れ、写っていることを公表していません。この世に突然現れた地獄を体験した人々が、けがや放射線障害だけでなく、差別という、原爆がもたらすもうひとつの影におびえ暮らしているのです。

被爆者の方は、多くの友人や親せきが亡くなった中で、自分が生きているのが申し訳ない、なぜ自分が生きているのか分からない、と被爆から70年を過ぎた今も涙を流しています。

原爆犠牲者 Victim_of_Atomic_Bomb_002
腹巻を巻いていた部分以外に大やけどを負った被爆者。

 

本項は、NHKスペシャル きのこ雲の下で何が起きていたのか [DVD]原子爆弾―開発から投下までの全記録を元に構成しました。

photo: 特に記載のないものはwikipedia, public domain

 

<より詳しく原爆の惨禍を知るために>

きのこ雲の下の広島では何が起きていたのか。原爆投下直後に撮影された2枚の写真を分析し、写真に写っていた方の証言を元に、被爆直後の広島で何が起きていたのかを詳細に分析したドキュメンタリーです。再現映像はまさに今自分が被爆直後の広島にいるような感覚を覚えます。あの日広島で何が起きたのか。ぜひご覧ください。

 
 
 
 
 
 


 

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