沖縄戦-住民の被害はどのように大きくなったのか

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沖縄戦-あらゆる地獄を集めた戦場

沖縄での戦いは、全戦没者(軍人・軍属・民間人合計)20万人、そのうち沖縄県民の犠牲者が12万人以上と言われます。住民の犠牲は太平洋戦争の地上戦としては国内最大のものでした。しかし一家全滅も相次ぎ、その正確な全体像は今も分かっていません。

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沖縄の位置
沖縄の位置 ©太平洋戦争とは何だったのか

 

沖縄は本土防衛の時間稼ぎ

1945年3月、アメリカ軍の沖縄への侵攻が始まります。このころの日本政府・日本軍の方針は、「一億玉砕」(いちおくぎょくさい)をスローガンに掲げ、国民全員が天皇を中心とした日本の体制を守るため、潔く死ぬのだとしていました。そのため、アメリカ軍の侵攻ルートに一番近い沖縄本島を、本土防衛のための最初の砦とし、極力敵に出血(犠牲)を強いる、という方針でした。その方針の下、大本営は沖縄を守備する陸軍の第32軍に1日でも時間を稼ぐ「持久戦」を命じていました。

 

軍隊の穴埋めに利用された住民たち

大本営は、沖縄戦の半年前、32軍の戦力を大幅に台湾へ移し替えましたため、32軍の兵力に大きな穴が空いてしまいました。その穴を埋めるために住民を「防衛招集」(ぼうえいしょうしゅう)という制度で動員することになります。最終的には14歳以上の男子中学生も対象になり、沖縄では22,000人以上が防衛招集で集められ、「根こそぎ動員」と呼ばれました。

日本軍は「軍官民共生共死の一体化」(ぐん・かん・みん きょうせいきょうしのいったいか)を進めるとし、民間人も軍隊を構成する一要素としてとらえるようになります。この言葉が示すように、当時の日本社会の序列は、軍人、官吏(かんり、役人)、民間人、の順番であり、軍人が一番偉く、民間人には軍隊を支えることが求められました。民間人にも「斬り込み」と称し、手製の爆弾などを抱えて敵に突っ込むことを命じました。

第32軍の長勇(ちょういさむ)参謀長は、 「全県民が兵隊になることだ。即ち一人十殺(いちにんじゅっさつ)の闘魂をもって敵を撃砕(げきさい)するのだ」と述べています。

このような方針の下、戦闘や後方支援に巻き込まれ、多くの子どもたちが悲劇的な運命をたどりました。ここでは参考として、高等女学校生・師範学校女子部の学徒による「ひめゆり学徒隊」と、少年ゲリラ兵「護郷隊」に関するページを紹介します。

1.【映画】あゝひめゆりの塔(1968)/沖縄戦で女学生たちに課せられた悲劇の運命(ブログ)
こちらのリンクは、「ひめゆり学徒隊」の物語の映画の紹介ページです。この映画は登場人物は架空の人物ですが、おおよそ当時の様子を表していると言われています。映画紹介でストーリー概要も記載していますので、ひめゆり学徒隊のおおまかな活動内容が分かるかと思います。

2.沖縄戦―少年ゲリラ部隊「護郷隊」
沖縄戦では、14、15歳の少年までもが兵士として駆り出され、北部のジャングル地帯でゲリラ兵として活動をしていました。郷里を護(まも)るという意味で護郷隊(ごきょうたい)と呼ばれましたが、実態は自分の故郷をも含めた破壊活動を強いられました。

 

アメリカ軍上陸

1945年4月1日、アメリカ軍は1300隻の艦船に54万人の人員を抱え、沖縄本島沖に集結。対する日本軍は約10万人の兵を沖縄に集めました。午前8時30分、10万発を越える艦砲射撃の後、アメリカ軍は上陸を始めました。

上陸後、アメリカ軍は沖縄本島の北(きた)飛行場、中(なか)飛行場をその日のうちに制圧。日本軍は首里(しゅり)の司令部周辺に集中的に集められており、上陸地点にほとんど兵を残していませんでした。

Okinawa_01 沖縄本島へのアメリカ軍の上陸
沖縄本島へ上陸するアメリカ軍

 

巻き込まれた住民

沖縄県民は県内外に疎開をする人がいましたが、疎開計画は思うように進んでおらず、50万人の住民は残っていました。逃げ場を失った住民、軍と行動を共にした住民、それぞれが凄惨(せいさん)な戦闘に巻き込まれ、悲劇的な最期を迎えていきます。

沖縄戦に参加したアメリカ軍の従軍記者ジェームズ・バーンズ曹長のある日の日記には、このように記されています。

住民の死体の山が放置されている。殺害した4700人のうち、2000人が住民だった

伊江島の戦い

4月16日には沖縄本島西北沖合に浮かぶ伊江島(いえじま)にアメリカ軍が上陸します。目的は伊江島の大規模な飛行場を制圧し、日本本土攻撃の足がかかりを築くことでした。

その時点で伊江島にはわずかな日本兵と、住民3000人が残されていました。兵力が十分ではないため、住民にも斬り込みが命じられ、10代の女性も爆弾を抱えて敵に突っ込みました。合言葉は「死んだら靖国で会おう」です。捕虜になるのは一番恥ずべきことだと小さいころから教わり、それしか分からなかった人々は斬り込みに参加し、生き残った人たちは集団で自殺(集団自決)を行います。

伊江島に取り残された3000人の住人のうち、1500人が命を落としました。一億玉砕が刷り込まれた住民にとって、生き延びるという選択肢はなかったのです。

 

首里をめぐる攻防

アメリカ軍は、戦闘が進むにつれ、100m先まで焼き尽くす火炎放射器を搭載した装甲車を投入するようになります。首里(しゅり)城を中心に、日本軍は地下壕に潜んでアメリカ軍の攻撃を防ぎました。地下壕には軍人と民間人が共に寝起きしたため、住民の被害が拡大します。

防衛招集者は装備も不充分、軍事訓練もせず、戦場に向かわされました。武器は鉄砲もなく、竹やりと手りゅう弾のみ。戦車の下に入って自ら爆破します。一度に40名近くが斬り込みを命じられたこともありました。

部隊は兵士どころか弾薬も食料も全てが不足していました。軍としては住民のことまで考えるゆとりはありませんでした。

5月14日、首里目前の「シュガーローフ」という丘をめぐる戦いでは、11回も攻める側と守る側が入れ替わる激戦が繰り広げられました。アメリカ軍海兵隊のこの戦いでの戦死は4000名に上ります。

アメリカ軍では「戦闘神経症」という、激しい戦闘によって精神に異常をきたす兵士が続出しました。シュガーローフの戦いでは、36時間で戦闘神経症の兵士が231人出たという記録があります。

Two Marines from the 2nd Battalion, 1st Marines advance on Wana Ridge on 18 May 日本軍と交戦するアメリカ海兵隊(5月18日)
日本軍と交戦するアメリカ海兵隊(5月18日)

 

無差別化するアメリカ軍の攻撃

首里攻防の1ヶ月で、住民の死者は記録にあるだけでも21,600人にのぼりました。これはアメリカ軍の攻撃が無差別に行われるようになってきたことの表れでもあります。

無差別攻撃の背景には、一部の日本兵は住民の服を着て偽装したため、アメリカ兵にとって日本兵と住民を見分けるのは難しかったという事情もありました。自分が先にやらないとやられてしまうという恐怖感から、住民であろうが、動くものは殺すということが行われるようになりました。

また、アメリカ軍は地下壕を見つけては逃げ道を断ち、火炎放射器で中を焼き尽くすことを繰り返しました。その中には住民たちもおり、生きていながら焼けていく人もいました。

 

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首里陥落、南部への移動

5月31日に首里が陥落します。首里陥落以降、6月23日までに判明しているだけで46,000人が命を落としました。事実上決着がついていたにもかかわらず、死亡の確認が取れている人の6割以上が首里陥落後に命を落としたことになります。

1日で5500人も亡くなった日もありました。なぜ戦闘は続いたのでしょうか。32軍司令官の牛島満(うしじまみつる)中将は、首里陥落後少しでも長く戦うために南部に指揮所を移します。それに伴って住民も南部へ多くが移動しました。

沖縄でアメリカ軍に捕らえられた日本軍捕虜
沖縄でアメリカ軍に捕らえられた日本軍捕虜

 

アメリカ軍のバーンズ曹長の日記によれば、アメリカ軍は南部に移った住民をどうすべきか検討した形跡があります。13万人にも及ぶ住民がいるようであり、一時休戦を申し入れ、住民を保護すべきではないかという意見もありましたが、実行されませんでした。

日本軍や住民が隠れていた地下壕や「ガマ」と呼ばれる沖縄独特の洞窟は、南部の糸満市(いとまんし)で確認されているだけでも240か所ありますが、うち92か所は軍の指揮に使うため、住民は他の場所に移らざるを得ませんでした。行き場のなくなった日本兵がガマの住民を追い出すこともありました。

ガマの中で子どもが泣くと敵に見つかるため、出ていけと言われることもありました。子どもを連れた母は砲弾の飛び交う外に出たり、泣く子供を殺したりすることもありました。

6月20日、沖縄本島南端の喜屋武(きゃん)半島に追い詰められた住民たちは、逃げ場を失い、次々に断崖から身を投げました。このような集団自決は、アメリカ兵にとっては理解ができないものでした。

 

戦闘の終了

そして6月23日、最後まで戦えという言葉を残し、牛島満中将は自決します。日本軍の組織的な抵抗は一応集結しましたが、中には終戦後まで戦い続ける日本兵もいました。

沖縄戦は、日本とアメリカ双方の兵士や沖縄県民に深い傷を残しました。当時戦闘に巻き込まれた住民は、70年以上経った今も記憶に苦しめられています。なぜ沖縄の人間はこんなに苦しめられるのか、今も深い傷を負ったままです。

また、アメリカ兵にも深い爪痕を残しました。先ほど出てきたバーンズ曹長も、戦後長い間毎晩悪夢にうなされていました。深夜に目を覚ましては泣き叫ぶ、その繰り返しであったといいます。バーンズ曹長の沖縄戦の日記は、こう締めくくられています。

戦場のすべてを見た もう十分だ

沖縄戦では、遺骨が見つかっていない人が今も3000人以上います。2015年も100体近い遺骨が見つかりました。沖縄戦は、戦場では一人の命がいかに軽いものか、私たちに問いかけています。

この項は「NHKスペシャル 沖縄戦 全記録 [DVD] 」を元に構成しました。

沖縄本島の戦いで何があったのか、より詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。

NHKスペシャル 沖縄戦 全記録

DVD 書籍版

 

 

photo: wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:沖縄で日本軍と交戦するアメリカ海兵隊


 

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