沖縄戦-住民の被害はどのように大きくなったのか

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巻き込まれた住民

沖縄県民は県内外に疎開をする人がいましたが、疎開計画は思うように進んでおらず、50万人の住民は残っていました。

逃げ場を失った住民、軍と行動を共にした住民、それぞれが凄惨(せいさん)な戦闘に巻き込まれ、悲劇的な最期を迎えていきます。

沖縄戦に参加したアメリカ軍の従軍記者ジェームズ・バーンズ曹長のある日の日記には、このように記されています。

住民の死体の山が放置されている。殺害した4700人のうち、2000人が住民だった

伊江島の戦い

4月16日には沖縄本島西北沖合に浮かぶ伊江島(いえじま)にアメリカ軍が上陸します。目的は伊江島の大規模な飛行場を制圧し、日本本土攻撃の足がかかりを築くことでした。

その時点で伊江島にはわずかな日本兵と、住民3000人が残されていました。兵力が十分ではないため、住民にも斬り込みが命じられ、10代の女性も爆弾を抱えて敵に突っ込みました。

合言葉は「死んだら靖国で会おう」です。捕虜になるのは一番恥ずべきことだと小さいころから教わり、それしか分からなかった人々は斬り込みに参加し、生き残った人たちは集団で自殺(集団自決)を行います。

伊江島に取り残された3000人の住人のうち、1500人が命を落としました。一億玉砕が刷り込まれた住民にとって、生き延びるという選択肢はなかったのです。

首里をめぐる攻防

アメリカ軍は、戦闘が進むにつれ、100m先まで焼き尽くす火炎放射器を搭載した装甲車を投入するようになります。

首里(しゅり)城を中心に、日本軍は地下壕に潜んでアメリカ軍の攻撃を防ぎました。地下壕には軍人と民間人が共に寝起きしたため、住民の被害が拡大します。

防衛招集者は装備も不充分、軍事訓練もせず、戦場に向かわされました。武器は鉄砲もなく、竹やりと手りゅう弾のみ。また、戦車の下に入って自らの体ごと爆破もしました。一度に40名近くが斬り込みを命じられたこともありました。

部隊は兵士どころか弾薬も食料も全てが不足していました。軍としては住民のことまで考えるゆとりはありませんでした。

5月14日、首里目前の「シュガーローフ」という丘をめぐる戦いでは、11回も攻める側と守る側が入れ替わる激戦が繰り広げられました。アメリカ軍海兵隊のこの戦いでの戦死は4000名に上ります。

アメリカ軍では「戦闘神経症」という、激しい戦闘によって精神に異常をきたす兵士が続出しました。シュガーローフの戦いでは、36時間で戦闘神経症の兵士が231人出たという記録があります。

Two Marines from the 2nd Battalion, 1st Marines advance on Wana Ridge on 18 May 日本軍と交戦するアメリカ海兵隊(5月18日)
日本軍と交戦するアメリカ海兵隊(5月18日)

 

無差別化するアメリカ軍の攻撃

首里攻防の1ヶ月で、住民の死者は記録にあるだけでも21,600人にのぼりました。これはアメリカ軍の攻撃が無差別に行われるようになってきたことの表れでもあります。

無差別攻撃の背景には、一部の日本兵は住民の服を着て偽装したため、アメリカ兵にとって日本兵と住民を見分けるのは難しかったという事情もありました。

自分が先にやらないとやられてしまうという恐怖感から、住民であろうが、動くものは殺すということが行われるようになりました。

また、アメリカ軍は地下壕を見つけては逃げ道を断ち、火炎放射器で中を焼き尽くすことを繰り返しました。その中には住民たちもおり、生きていながら焼けていく人もいました。

首里陥落、南部への移動

5月31日に首里が陥落します。首里陥落以降、6月23日までに判明しているだけで46,000人が命を落としました。事実上決着がついていたにもかかわらず、死亡の確認が取れている人の6割以上が首里陥落後に命を落としたことになります。

1日で5500人も亡くなった日もありました。なぜ戦闘は続いたのでしょうか。32軍司令官の牛島満(うしじまみつる)中将は、首里陥落後少しでも長く戦うために南部に指揮所を移します。それに伴って住民も南部へ多くが移動しました。

沖縄でアメリカ軍に捕らえられた日本軍捕虜
沖縄でアメリカ軍に捕らえられた日本軍捕虜

 

アメリカ軍のバーンズ曹長の日記によれば、アメリカ軍は南部に移った住民をどうすべきか検討した形跡があります。13万人にも及ぶ住民がいるようであり、一時休戦を申し入れ、住民を保護すべきではないかという意見もありましたが、実行されませんでした。

日本軍や住民が隠れていた地下壕や「ガマ」と呼ばれる沖縄独特の洞窟は、南部の糸満市(いとまんし)で確認されているだけでも240か所ありますが、うち92か所は軍の指揮に使うため、住民は他の場所に移らざるを得ませんでした。行き場のなくなった日本兵がガマの住民を追い出すこともありました。

ガマの中で子どもが泣くと敵に見つかるため、出ていけと言われることもありました。子どもを連れた母は砲弾の飛び交う外に出たり、泣く子供を殺したりすることもありました。

6月20日、沖縄本島南端の喜屋武(きゃん)半島に追い詰められた住民たちは、逃げ場を失い、次々に断崖から身を投げました。このような集団自決は、アメリカ兵にとっては理解ができないものでした。

戦闘の終了

そして6月23日、最後まで戦えという言葉を残し、牛島満中将は自決します。日本軍の組織的な抵抗は一応集結しましたが、中には終戦後まで戦い続ける日本兵もいました。

沖縄戦は、日本とアメリカ双方の兵士や沖縄県民に深い傷を残しました。

当時戦闘に巻き込まれた住民は、70年以上経った今も記憶に苦しめられています。なぜ沖縄の人間はこんなに苦しめられるのか、今も深い傷を負ったままです。

また、アメリカ兵にも深い爪痕を残しました。先ほど出てきたバーンズ曹長も、戦後長い間毎晩悪夢にうなされていました。

深夜に目を覚ましては泣き叫ぶ、その繰り返しであったといいます。バーンズ曹長の沖縄戦の日記は、こう締めくくられています。

戦場のすべてを見た もう十分だ

沖縄戦では、遺骨が見つかっていない人が今も3000人以上います。2015年も100体近い遺骨が見つかりました。沖縄戦は、戦場では一人の命がいかに軽いものか、私たちに問いかけています。

この項は「NHKスペシャル 沖縄戦 全記録 [DVD] 」を元に構成しました。

沖縄本島の戦いで何があったのか、より詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。

NHKスペシャル 沖縄戦 全記録

DVD 書籍版

 

photo: wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:沖縄で日本軍と交戦するアメリカ海兵隊

 

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