このページでは、太平洋戦争の全体像を説明します。さらに深く知りたい部分は、それぞれの詳細ページをご覧ください。
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太平洋戦争とは?
1941(昭和16)年12月8日から1945(昭和20)年9月2日の間の約3年9カ月間にわたり、日本と、アメリカ・イギリス・オランダ・中国(当時は中華民国と言いました)を中心とする国々との間で起きた戦争です。
アジア・太平洋の広大な地域が戦場となった結果、敵味方双方でおびただしい数の犠牲者を生み、日本の降伏によって終わりを迎えました。
1940(昭和15)年にヨーロッパのドイツ・イタリアと軍事同盟(三国同盟)を結んだ日本は、アメリカ・イギリス・中国などの連合国と敵対していました。
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、「第二次世界大戦」が勃発。以降、ドイツ・イタリアはヨーロッパの大部分と北アフリカを主な戦場として戦います。
太平洋戦争は第二次世界大戦のうち、アジア・太平洋地域が舞台となった戦争です。
一般的に天皇の「玉音(ぎょくおん)放送」が流れた8月15日が「終戦の日(終戦記念日)」とされていますが、これはあくまで日本国内および韓国など一部で通用する日で、国際的に正式に戦争が終わった日は9月2日です。
💡 終戦の日について詳しくはこちら⇒ 「終戦記念日」は8月15日でよいのか?
どうして起きたの?
太平洋戦争開戦までの流れを、大まかにいうと以下のようになります。
日本の中国大陸進出[1894頃~]
↓
満州(中国東北部)の獲得[1931-1932]
↓
日中戦争勃発・泥沼化[1937]
↓
資源不足
↓
東南アジアへの進出(南方進出)[1940-1941]
↓
アメリカの圧力・ABCD包囲網[1940-1941]
↓
日米交渉失敗[1941]
↓
開戦[1941]
【解説】
日清戦争、日露戦争で、日本は中国進出への足がかりを築きました。中国で得られる経済的利益と、ソ連に対する防衛という二つの理由を中心として、その後も日本は中国へ積極的に関与していきます。
1931(昭和6)年に中国東北部の満州を日本陸軍の謀略によって手に入れると(満州事変)、さらに南へと影響力を伸ばします。
1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)にて日中両軍の小競り合いが発生(盧溝橋事件)。これをきっかけに中国(当時の中華民国)との全面戦争へ突入します。
予想に反して戦争が長期化すると、日本は軍需物資が不足。資源確保を目的として、東南アジアへ進出すると、アメリカ、イギリス、オランダがこれに強く反発。
日本への資源供給をストップし、経済的な締め付けを強めました。
資源供給の再開を求めてアメリカと交渉をするものの、中国からの全面撤兵など強固な条件を突き付けられた日本はこれを飲むことができず、開戦に至りました。
💡 より詳しい経緯説明はこちらをご覧ください。
戦争の流れは?
太平洋戦争の流れは、大まかに以下のようになります。
開戦[1941.12]
↓
緒戦の快進撃[1941.12-1942.5]
↓
戦局の転機[1942.6-1943.2]
↓
戦線の崩壊[1943.3-1944.7]
↓
連合軍日本本土へ迫る[1944.10-1945.2]
↓
沖縄戦[1945.3-6]
↓
ポツダム宣言から終戦へ[1945.7-9]
【解説】
太平洋戦争は、1941(昭和16)年12月8日早朝、日本軍が当時イギリス領だったマレー半島(現在のマレーシア)へ上陸し、その直後ハワイ・真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃したことで始まりました。
開戦直後、日本軍は猛烈な勢いで東南アジアおよび太平洋の島々を攻め、欧米の植民地であったそれらの地域を攻め落としました。
年が明けた1942(昭和17)年2月、アジアにおけるイギリスの一大拠点であったシンガポールが陥落。
また、開戦の最大の目的であったオランダ領東インド(蘭印、現在のインドネシア)の油田地帯を攻略しました。
各地で連合軍に勝利をおさめ、開戦から半年弱で東南アジア全域と北半球の太平洋のほぼ西半分を勢力下に収めました。
日本軍の快進撃は、アメリカ軍の必死の抵抗によりおよそ半年でストップします。
1942年6月、ハワイ西方の「ミッドウェー島」を攻略しようとした日本の空母部隊が、アメリカ軍空母部隊の待ち伏せを受けて大敗北(ミッドウェー海戦)。
続いて8月、オーストラリア北方の「ガダルカナル島」で日本軍が築いていた飛行場をアメリカに奪取されたことから、それを取り戻そうとした日本軍との間で、幾度にもわたる激しい戦いが起きました。
日本軍は結局このガダルカナル島を取り戻せず、1943(昭和18)年2月に撤退します。
その後、日本軍は一貫して苦しい戦いを強いられました。
開戦直後に占領した太平洋の島々は、次々にアメリカ軍を中心とする連合軍に攻め落とされ、各地で突撃と全滅を意味する「玉砕(ぎょくさい)」が繰り返されました。
1944(昭和19)年7月、日本の太平洋における最も重要な拠点であった「サイパン島」が陥落。
これを機に、日本本土はアメリカの最新鋭爆撃機B-29の射程圏内に入ることとなり、連日空襲に見舞われるようになります。
1944年10月にアメリカはフィリピンに上陸。南方の資源地帯からの輸送はほとんど遮断されるようになり、日本は戦争に必要な物資をほとんど調達できなくなりました。
そして1945(昭和20)年3月、連合軍はついに沖縄へ攻撃を開始。4月1日に沖縄本島に上陸し、激しく反撃をする日本軍を島の最南端へ追い詰め、6月23日に沖縄における日本軍の組織的な戦闘は終了します。
1945年春ごろより、日本政府は本格的に終戦への道筋を模索し始めます。
ソ連を頼ってアメリカとの仲介を依頼しましたが、それはうまくいかず、7月に連合軍は日本へ降伏を突きつける「ポツダム宣言」を発表。
日本政府が宣言を「黙殺」する間に、8月6日に広島へ、9日には長崎へ原子爆弾が投下され、一瞬にして都市が壊滅しました。
同じく9日、中立を保っていたソ連が満州へ侵攻。 いよいよ耐えられなくなった日本は、天皇のポツダム宣言受け入れの決意表明によって、終戦を決定します。
8月14日に連合国へ通知し、15日、天皇の肉声を録音した「玉音(ぎょくおん)」が放送され、日本本土と植民地・占領地へ日本の敗戦が伝えられました。
連合国との間で正式に戦争が終結したのは、9月2日の降伏調印式によってです。
8月15日を過ぎてもソ連の満州・千島列島・樺太への侵攻は止まらず、満州では57万人以上の日本軍将兵や公務員等が拉致され、極寒のシベリアで強制労働に就くことになります(シベリア抑留)。
💡 より詳しい経緯はこちらをご覧ください。
戦争の呼び名について
この戦争は、戦時中日本では「大東亜(だいとうあ)戦争」と呼ばれていました。
「太平洋戦争」は戦後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって使用するよう変更を強制され、定着するようになったものであり、この戦争をどのように呼ぶかはいまだに議論があります。
当時日本が呼んでいた名称を使うべきであるという意見がある一方、「大東亜戦争」は「大東亜共栄圏」の建設という戦争目的が色濃く反映された名称と言え、戦争目的や、ひいては日本の侵略行為の肯定につながるという考えもあります。
一方で、「日清戦争」「日露戦争」のように交戦国の名称を入れるだけの方が、受け入れやすいという考え方もあります。
この場合は交戦国が複数に及ぶので、地理的広がりで呼ぶことになります。戦場は太平洋だけではなかったので、「アジア・太平洋戦争」とする動きもあります。
また、戦争の期間を取り、満州事変(1931年)から続く一連の戦争、ということで「15年戦争」と呼ぶ意見もあります。
本サイトでは、これからこの戦争について知っていきたいという方を対象にしているので、最も定着している「太平洋戦争」を使用しています。
これから皆さんが学ばれる中で、どのような呼び方がもっともふさわしいか、考えて頂くのが好ましいと考えています。
本項の内容をもっと詳しく知りたい方はこちらから ➡ <解説編>太平洋戦争入門
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