日中戦争から日米開戦へ―資源争奪の末の衝突

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日中戦争ぼっ発

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日本・中国の軍隊による小競り合いが発生(盧溝橋事件)。この事件をきっかけとして、日中両国は戦争状態に突入しました
※戦争となると、国際法により戦争に関与しない第三国は当事国への支援を禁じられる。そのため海外からの物資を必要とし、国際的孤立を避けたい日中両国は宣戦布告をお互いにしなかった。したがって「戦争」という言葉は使えず、日本はこの戦争のことを北支(ほくし)事変、支那(しな)事変、日華(にっか)事変などと呼んだ。日中戦争というのは戦後定着した用語。

 

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当初日本軍部は短期間のうちに中国の蒋介石政権を屈服させられると考えていましたが、日中間の衝突は当初想定より大幅に長引き、資金や資源は逼迫していきました。折から戦争遂行に必要な物資を確実に調達するために、1938年3月に「国家総動員法」が制定されました。これはヒト・モノ・カネのすべてを国家の統制下に置くもので、単に経済を統制するにとどまらず、全体主義的かつ総合的な統制法でした。

戦時中のスローガン
日中戦争が始まると日本は物資不足に陥り、国民も金属製品などの提出(供出)を求められると同時に、生産や戦争に関係のないぜいたくは排除される風潮が強まった。

 

ドイツのヨーロッパ侵攻開始

ヨーロッパでは1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻。ヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争が始まりました。これによりヨーロッパからの輸入が激減し、物価も急激に上がりました。日中戦争下で物資不足に悩む日本には大きな打撃となります。

ドイツは快進撃を続け、オランダとフランスも占領します。アジアにおいては、オランダは現在のインドネシアあたり(オランダ領東インド=蘭印(らんいん))、フランスは現在のベトナム・カンボジア・ラオスあたり(仏領インドシナ=仏印(ふついん))を植民地にしていました。それ以前からドイツと接近していた日本では、蘭印や仏印に対する本国の統制が弱まったこの機に乗じ、資源の取れる東南アジアに進出するべきとする「南進論」が急速に台頭します。そして1940年7月、第二次近衛内閣は北部仏印(現在のベトナム北部)への進駐(軍隊を進め駐留させること)を決定しました。

 

日本を警戒するアメリカ

1931(昭和6)年の満州事変以来、満州国建国、日中戦争突入など中国への野心を隠さない日本に対し、日本がアジアにおける権益を独り占めするのではないかと、アメリカは警戒心を増していました。そのような中、日本は1940年9月27日、それまで結んでいた日独伊三国防共協定を強化し、軍事同盟である「日独伊三国同盟」を締結。全体主義、軍国主義を掲げるドイツ、イタリアとの軍事同盟締結は、イギリス・アメリカを中心とする陣営に対する明確な挑戦と受け止められました。同年10月16日にはアメリカは日本に対するくず鉄と鉄鋼の輸出を禁止します。工業製品の基本的な材料である鉄を日本に与えないことで、日本の工業や軍備の抑制を図りました。

欧米からの物資輸入がほぼ立たれた近衛内閣は、1941(昭和16)年7月23日、アメリカやイギリスなどとの開戦覚悟で南部仏印(現在のベトナム南部)へ進駐を決定。これを受け、アメリカ、イギリス、オランダは日本の対外資産をすべて差し押さえ、ガソリンや石油の日本への輸出を禁止しました。日本はいよいよ資源供給を絶たれ、早期開戦を訴える声が軍の内外から上がります。石油をはじめとする日本の資源備蓄はわずかしかなく、時間が経てばたつほど軍事行動を起こすには不利になるからです。さらに、好調に勝ち進むドイツがヨーロッパを制し、ソ連に勝つことが期待されたため、アジアにおける日本の立場はますます優位になると軍部は考えました。

 

アメリカへの対応をめぐって揺れる日本

軍部を中心に開戦すべしという声が大きくなってきたものの、政府および軍首脳はアメリカと戦ってまともに勝てる見込みはないという意見も根強いものがありました。資源大国であり、工業生産力が日本よりはるかに上を行くアメリカを敵に回すことは軍事的に大きな賭けであることから、政府は交渉によってアメリカと和解することを模索し続けました。アメリカとしては、日本のアジア大陸への進出は許容できないところまで来ていましたが、ヨーロッパ戦線でドイツに抵抗するイギリスを支援しており、大西洋(ヨーロッパ方面)と太平洋(日本方面)の両面作戦は避けたく、日本との交渉を引き延ばす方針を取りました。

 

ドイツのソ連侵攻

そのような中、ヨーロッパ戦線に大きな変化が起こります。1941年6月22日、ドイツは不可侵条約(お互いの領地を侵略しないことなどを定める条約)を結んでいたソ連へ突如攻撃を仕掛け、怒涛の勢いでソ連領に侵攻しました。しかし夏頃にはドイツ軍侵攻の速度は遅くなり、秋には前線は停滞し始めます。これを見たアメリカは、イギリスのチャーチル首相と相談をし、これまでドイツ・日本と不可侵・中立条約を結んでいたソ連を連合国側に引き込むことで、枢軸国(日独伊)側に十分対抗できると考えました。そして、これ以上日本との交渉を時間稼ぎする必要はないと判断しました。

ヒトラーとドイツ兵
ヒトラーとドイツ兵

 

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開戦の決断

日本では、成果の上がらないアメリカとの交渉に対する不満と、資源供給が絶たれた焦りから、戦争開始へ大きく舵を切ります。9月6日、「帝国国策遂行要領」が御前会議(天皇陛下出席の下開催される、重要な国策を決定する会議)において「対アメリカ(イギリス・オランダ)戦争を行う決意で10月下旬をめどとして戦争準備を完了させ、外交交渉で10月上旬に至っても日本の要求がアメリカに通らなければ、直ちに開戦を決意する」ことが決定されました。

それでも、外交交渉を打ち切り、開戦に踏み切るかどうか、政府・軍部の間では激しいやり取りがなされました。アメリカとの戦争になれば、太平洋が主たる戦場となり、海軍が戦争の中心となります。しかし、及川海軍大臣には確実に勝てる自信はなく、どちらかというと戦争を避けたいと考えていました。海軍の予測では、開戦後1,2年はアメリカに対し勝利を収めることはできるものの、双方の国力(工業生産力、資源など)の大幅な違いから、3年目以降は勝てる見込みが極めて低くなると考えていました。

しかし、東条陸軍大臣は一度陛下の前で決めた国策要領を撤回することは不可であると強く述べ、また開戦準備にまい進する陸軍部内を抑えきれないという見込みから、開戦を強硬に主張。交渉継続を望んだ近衛文麿(このえふみまろ)総理大臣は、事態の収拾が不可能であると考え、10月16日、内閣総辞職に踏み切ります。後任の首相として任命されたのは東条英機(とうじょうひでき)陸軍大臣でした。

 

日本を開戦へと踏み切らせた「ハル・ノート」

アメリカ側では、日本への最後通告をどのような内容にし、またどのように出すべきか、議論が交わされていました。スチムソン陸軍長官の11月25日の日記には、「問題はどのように彼ら(日本)を操って、われわれには余り過大な危険を及ぼすことなく、最初の一発を発射するような立場に彼らを追い込むべきかということであった」とあることからも、アメリカには日本と交渉して和平の道を探る意図はなく、時間稼ぎをしたうえで日本側からアメリカへ攻撃を仕掛けるよう仕向けることがアメリカ政府内の最大の眼目でした。そして11月27日、国務長官(日本の外務大臣に相当)コーデル・ハルは、野村・来栖(くるす)両 在アメリカ日本大使に対して「ハル・ノート」と呼ばれる覚書を手渡しました。そのうち、特に日本にとって衝撃が大きかった項目は以下です。

  • 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
  • 日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認
  • 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄

※出典:Wikipedia ハル・ノート

これらは、1930年代からの日本の大陸における政策・軍事行動の破棄を求めるもので、時計の針を10年前の満州事変の前に戻せという主張に近く、当時の日本の情勢からは到底受け入れられないものでした。この報告を受けた27日に開催された「大本営政府連絡会議」(軍部と政府の意思統一を図るための会議)において、ハル・ノート受け入れ拒否が決定され、開戦の方針を決定。12月1日の御前会議においてアメリカ、イギリスに対し開戦することが最終決定されました。

アメリカ国務長官コーデル・ハル
アメリカ国務長官コーデル・ハル

 

開戦の方針が定まる前日の11月26日午前6時、今はロシア領となっている千島列島択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾から、空母6隻、航空機350機以上、戦艦2隻、重巡洋艦2隻を中心とする日本海軍空母機動部隊がハワイ真珠湾に向け密かに出発しました。機動部隊は日米交渉が妥結すれば途中で引き返すことになっていましたが、東京から届いた連絡は「交渉決裂」。そのまま真珠湾へと向かったのです。

そして、1941(昭和16)年12月8日午前8時(ハワイ時間)、日本海軍第一次攻撃隊183機はハワイ・オアフ島の真珠湾に浮かぶアメリカ太平洋艦隊奇襲に成功し、3年9カ月に及ぶ太平洋戦争は幕を開けました。

同日天皇の名で発せられた「開戰の詔勅」の原文はこちら

 

開戦に間に合わなかった最後通牒

国際法では戦争を始める前には宣戦布告または最後通牒(さいごつうちょう)をしなければならないと定められていますが、日本から送られた暗号解読にワシントンの大使館員が手間取り、野村大使がハル国務長官に最後通牒を手渡したのは真珠湾が攻撃された約1時間後のことでした。アメリカ側は日本の外交暗号を解読していたので、日本が最後通牒を送ってきていたことは真珠湾攻撃より前に察知していました。ルーズベルト大統領は12月7日(日本時間)に天皇宛に平和を願う旨の親書を送るなどしていましたが、これは最後まで和平の可能性を探る努力をしていたといういわばアリバイ作りでした。そして最後通牒が開戦後になったことは、平和への努力が続けられている最中における日本の卑怯で屈辱的なだまし仕打ちだとして、アメリカ国内で大いに戦意高揚の材料として使われることになりました。
※ただしいつどこに日本軍が攻撃を仕掛けるかまでははっきりとわかっていなかったので、ハワイへの通知は遅れ、真珠湾攻撃に間に合わなかった。

 

暗転する日本の運命

そしてこの12月8日は、もう一つの日本の行く末を左右する大事件が起きていました。ヨーロッパ戦線でドイツ軍はモスクワを目前にしていたものの、ソ連軍の猛反撃と凍てつくような寒さの中一歩も進むことができなくなり、ついにヒトラーは全作戦の停止を命じました。日本がその命運を賭けて行った一大奇襲攻撃のまさにその時、日本が作戦の前提としていたドイツ軍の勝利は遠く消え去ろうとしていたのです。

 

本項は日本経済史1600‐2000―歴史に読む現代、 日米開戦 (太平洋戦争への道―開戦外交史)奇襲ハワイ作戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 1)を元に構成しました。



アイキャッチ画像:東条英機内閣(photo:Wikipedia, public domain)

 

 


 

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