真珠湾攻撃―太平洋戦争の衝撃的幕開け

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機動部隊出撃

1941(昭和16)年11月16日、連合艦隊の機動部隊は、大分県の佐伯(さいき)湾に集結。

17日に山本連合艦隊司令長官の訓示を受けた後、敵に目的を悟られないよう、時間をずらし各艦出発し、真珠湾攻撃の出発地である択捉(えとろふ)島・単冠(ひとかっぷ)湾へ向かいました。

11月22日に単冠湾へ集結した機動部隊は、26日朝、ハワイへ向け出発しました。

※機動部隊…空母と艦載機を中心とする部隊で、敵基地や艦船近くまで忍び寄り、艦載機によって空からの攻撃を行う。真珠湾攻撃の場合は連合艦隊のうち、第一航空艦隊を中心とする部隊。

機動部隊は空母6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦3隻、給油艦7隻からなる大規模な部隊でした。

また、機動部隊の出発に先立ち、潜水艦25隻、特殊潜航艇(カモフラージュのため「甲標的」(こうひょうてき)と呼ばれていた)5隻からなる潜水艦部隊(特別攻撃隊、第一・第二・第三潜水部隊)が本州・九州の各所から出発しており、真珠湾に向かっていました。

移動中敵に発見されてしまうと奇襲ができなくなってしまうため、機動部隊の移動には細心の注意が払われました。

航行のコースは、通常は海が荒れて航海に向かない北寄りのコースがあえて取られました。

艦同士の通信に無線は一切使用が許されず(無線封止(むせんふうし))、また万一連合国側の船舶に発見された場合も、大規模な襲撃作戦と見破られないよう、縦50km、横37㎞の広大な長方形に隊列を組んで航行しました。

 

機動部隊へ攻撃命令下る

機動部隊が出発する際には、攻撃の最終的決定はなされていませんでした。

政府は11月いっぱいアメリカとの外交交渉を続け、上手くいかなかった場合、開戦するという手はずでした。

11月29日、軍令部より「日米交渉、前途絶望」との連絡が入ります。そして12月2日午後8時、ついに攻撃命令を受け取ることになります。

新高山登レ一二〇八
(ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ)

12月8日午前零時を期し、戦闘行動を開始すべし、という暗号電文です。

真珠湾と関連場所の位置関係

アメリカ海軍は西海岸カリフォルニア州のサンディエゴに太平洋艦隊の本拠地を置いていましたが、日本との摩擦がいよいよ大きくなる最中の1940(昭和15)年5月、より日本に近いハワイ・オアフ島の真珠湾(Pearl Harbor、パール・ハーバー)に本拠地を移しました。

真珠湾はそれ以前より海軍基地として整えられ、戦艦とも戦える大砲を備えた要塞に守られていました。

黄=択捉島赤=真珠湾青=カリフォルニア州サンディエゴ(アメリカ海軍太平洋艦隊の前根拠地)紫=ワシントンD.C.(アメリカ合衆国首都)

 

アメリカ合衆国ハワイ州

 

失敗した特殊潜航艇による奇襲攻撃

空母艦載機の攻撃に先立つこと約1時間、真珠湾の入り口では、潜水艦に運ばれた特殊潜航艇(甲標的)5隻が発信し、密かに湾内に奇襲を加えようとしていました。

しかし、すべて湾を守るアメリカ軍駆逐艦に撃退され、攻撃は成功しませんでした。

この攻撃は駆逐艦から司令部に即座に報告されましたが、スムーズに伝わらず、報告の電話がアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官キンメルに伝わったのは、航空機による奇襲攻撃が始まる直前の7時40分でした。

そのおかげで日本軍は奇襲攻撃に成功したと言えます。

攻撃開始

1941(昭和16)年12月7日未明(ハワイ時間)、オアフ島の北約400kmに接近した機動部隊は、183機の第一次攻撃隊を発艦させました。

オアフ島上空に差し掛かった攻撃隊は、敵からの反撃が全くないことを確認。攻撃隊総指揮官の淵田美津雄(ふちだみつお)中佐はハワイ時間午前7時49分(東京時間8日午前3時19分)、全軍突撃の合図である「ト、ト、ト、ト」(ト連送)を後続の部隊に対し送りました。そして続く、7時53分、ハワイ奇襲成功を報告する

トラ・トラ・トラ
(我、奇襲に成功せり)

を打電しました。

攻撃隊は攻撃体制に移り、順次決められた目標へ魚雷や爆弾を投下しました。主な目標は真珠湾に停泊する戦艦です。

空母も重要な目標でしたが、この日湾内および周辺海域に空母を発見することはできませんでした。

また、オアフ島には陸海軍合わせて7つの航空基地があり、それらに駐機されている敵の戦闘機を破壊することも欠かせないことでした。敵の戦闘機が健在だと、やがて反撃されるからです。

真珠湾攻撃爆撃飛行路

 

アメリカ側は、新しく配備されたばかりのレーダーに、飛行機の大集団の影を捉えていました。

しかし、報告を受けた上官は味方の航空機と勘違いし、それ以上の警戒を行いませんでした。そのためほとんどのアメリカ兵は日本軍が近づいていることに全く気付いておらず、第一次攻撃隊は次々に目標に魚雷および爆弾を命中させました。

そして第一次攻撃隊が引き上げ、日本軍の空襲は終わったかに見えた午前9時(ハワイ時間)前、第二次攻撃隊167機が再びオアフ島上空に現れました。

第二次攻撃隊は第一次攻撃隊の撃ち漏らした戦艦や基地航空部隊をさらに攻撃し、戦果を確実にすることが目的でした。

そして午前9時45分、日本軍の攻撃は終わりました。攻撃開始から約二時間の出来事でした。

真珠湾攻撃で爆撃される駆逐艦「ショー」爆発するアメリカ軍駆逐艦「ショー」

 

真珠湾攻撃の成果

この攻撃で停泊していた8隻のアメリカ海軍の戦艦のうち、戦艦ペンシルヴェニア以外の7隻が大打撃(中破以上)を受け、5隻は弾薬の誘爆等もあり完全に破壊されるか、浸水し海底まで沈みました。

航空基地に置かれていた多くの戦闘機や爆撃機も破壊されました。この瞬間、太平洋におけるアメリカ軍の攻撃力は極めて弱いものとなりました。(ただし損傷を受けた多くの艦はその後引き上げられ、修理され戦列に復帰している。)

真珠湾攻撃によるアメリカ側の死者は約2300名でした。

一方で、真珠湾攻撃はハワイにおけるアメリカの戦力を完全に奪うには至りませんでした。

アメリカ太平洋艦隊の空母3隻はこの時湾内及びオアフ島周辺に存在しませんでした。1隻はサンディエゴで修理中、2隻は航空機等を輸送する任務に就いていました。

そのため、日本軍はこの撃ち漏らしたアメリカ空母にその後の戦いで大いに苦しめられることになります。

同様に、基地への攻撃は航空機こそ打撃を与えたものの、滑走路、管制塔、司令部など施設そのものにはそれほど大きなダメージを与えられなかったため、オアフ島の各基地は比較的早く復旧しました。

また、燃料となる重油が詰められた大量のドラム缶が真珠湾にはありましたが、それらも攻撃を受けず無傷のまま残されました。

機動部隊がさらなる攻撃を行わなかったのは、敵空母がどこにいるか掴めなかったため、反撃を恐れ、第二次攻撃隊が戻った後すぐに本土に帰ったからです。

第二次攻撃後、さらなる攻撃をすべきであるという意見が機動部隊の中でも強くありましたが、南雲忠一(なぐもちゅういち)第一航空艦隊司令長官は、日本海軍虎の子の空母部隊を一隻も傷付けず帰ってくるように山本長官から厳命されていたため、それ以上の攻撃を行いませんでした。

 

アメリカの参戦に火を付けた

アメリカ軍にとっては、鉄壁の守りという自信を持っていた真珠湾が、戦力的に自分たちより劣ると考えていた日本軍に奇襲されたことで、大変なショックを受けました。

また、日本の宣戦布告が攻撃開始に間に合わなかったことを大いに批判し、アメリカ国内の戦意高揚に大きく利用しました。

翌日のフランクリン・ルーズベルト大統領の演説では、「アメリカと日本は昨日まで平和的に交渉をしていたのに、日本は突如だまし討ちをした」と述べました。

太平洋戦争を通じての合言葉となる「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)という標語も即座に作られています。

ルーズベルト大統領は大統領選挙で海外の戦争に関与しないことを公約として掲げ当選しており、またそのような世論も根強かったため、ヨーロッパ戦線も全面的に参戦するのではなく、イギリスやソ連の支援をするに留まっていました。

しかし、真珠湾攻撃の衝撃をアメリカ人の怒りへと転換することで、世論の強い支持を得ながら日本など枢軸国に対する戦争を開始する大義名分を得ました。

山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾攻撃の目的の一つに、敵主力を一気に叩くことで、敵の戦意を削ぐことを挙げていました。

しかし、宣戦布告の遅れは逆にアメリカ人の怒りに火を付ける格好の材料を提供した結果となりました。

真珠湾攻撃 戦力・損害比較

  日本 アメリカ
目的 アメリカ海軍太平洋艦隊、特に戦艦部隊・空母部隊の撃滅      ―
主な戦力※1

空母 6
艦載機※2 350
戦艦 2
重巡洋艦 2
軽巡洋艦 1
駆逐艦 9
潜水艦 28
特殊潜航艇 5

戦艦 8
重巡洋艦 2
軽巡洋艦 6
駆逐艦 25
潜水艦 5
航空機 413(うち戦闘機178、爆撃機78)
主な損害※3
空母 0 (0%)
艦載機 29 (8%)
戦艦 0 (0%)
重巡洋艦 0 (0%)
軽巡洋艦 0 (0%)
駆逐艦 0 (0%)
潜水艦 0 (0%)
特殊潜航艇 5 (100%)
戦艦 5 (63%)
重巡洋艦 0 (0%)
軽巡洋艦 1 (17%)
駆逐艦 3 (12%)
潜水艦 0 (0%)
航空機 完全破壊188 (46%)
結果
  • アメリカ海軍太平洋艦隊の主力戦艦を一時的に壊滅
  • ハワイの陸上基地航空戦力の大半を撃滅
  • 最大の目標であった空母は一隻も発見できず
  • 機動部隊により軍艦部隊を壊滅できることを証明
  • 日本機動部隊の能力の高さを証明
  • 海軍の能力に国民が大きな自信を得、国内の戦意高揚に大きなプラス材料
  • 在太平洋の戦艦の多くを失い、一定期間太平洋上で反撃できない状況に
  • 日本の宣戦布告が攻撃に間に合わなかったことで、戦意高揚の原動力となる
  • 太平洋艦隊司令長官キンメルが更迭され、後任にニミッツ提督が就任
  • 空母機動部隊を中心とした編成に転換

※1主な戦力…(日本)機動部隊、潜水部隊の合計、(アメリカ)真珠湾攻撃当時湾内に在泊していた艦艇とオアフ島の各航空基地に駐機またはオアフ島に向かっていた航空機
※2艦載機…航空母艦(空母)には敵機撃墜を主目的とした戦闘機、敵艦隊や地上施設を破壊するための爆撃機・攻撃機・雷撃機(国によって呼び方が異なる)など、複数種類の航空機を搭載(とうさい)する。これらをまとめて航空母艦に搭載されている航空機ということで「艦載機」(かんさいき)と呼ぶ。ここでは哨戒機を含まず、艦上爆撃機(艦爆)、艦上攻撃機(艦攻)、艦上戦闘機(艦戦)の合計。
※3…軍艦は沈没・大破の数、%=参加戦力のうちの損耗率(戦力/損害)
表出典:奇襲ハワイ作戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 1)別冊歴史REAL大日本帝国海軍連合艦隊全史 (洋泉社MOOK 別冊歴史REAL)

 

 

本項は

 
 

アイキャッチ画像:攻撃を受ける戦艦アリゾナ
photo:Wikipedia, public domain

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