戦前の政治と社会(2)軍国主義時代の到来(1931~1937)

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中国東北部の本格的支配にのぞむ関東軍

1919(大正8)年、中国では孫文(そんぶん)によって国民党が、1921年には共産党が結成されます。

広東を中心として中国南部に支配を広げた中国国民党は、1926(昭和元)年、全国統一を目指して北上しました。

その当時、中国は内戦状態で、各地に「軍閥」と呼ばれる軍事力を持った勢力が割拠(かっきょ)し、各地方を治めていました。国民党は北方の軍閥を倒しつつ北上します(北伐(ほくばつ))。

それに対し、中国東北部の満州地方に権益を持っていた日本は、1927年、満州における権益を実力で守る方針を決めます。

そして日本政府は満州の軍閥である張作霖(ちょうさくりん)を支援し、国民党を防ごうと考えました。

しかし、張作霖は国民党に敗北してしまいます。そこで関東軍の一部に、張作霖を殺害し、満州を直接支配するという考えが起きました。

 

張作霖爆殺事件

1928(昭和3)年6月、関東軍は独断で張作霖を列車ごと爆破して殺害しました。

関東軍のもくろみではこれにより関東軍が直接満州を支配するというものでしたが、張作霖の後を継いだ張学良(ちょうがくりょう)は、満州を国民政府支配下の土地と認め、国民党の北伐は完了しました。

これを機に中国では不平等条約の撤廃を求める機運が高まります。危機感を強めた関東軍は武力によって満州を万里の長城以南から切り離し、日本の勢力下に置こうと計画しました。

張作霖爆殺事件
張作霖爆殺事件

 

柳条湖事件から満州事変へ

1931(昭和6)年9月18日、関東軍は奉天(ほうてん)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で日本が管理する南満州鉄道の線路を爆破します(柳条湖事件)。

これを中国軍のしわざであると欺(あざむ)き、軍事行動を開始。政府(第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣)は、不拡大方針を発表したものの、世論とマスコミは軍の行動を支持し、関東軍は満州全域を制圧下におさめるべく戦線を拡大します(満州事変)。

日本政府は中国との直接交渉をめざしたものの、満州の主要地域を占領した関東軍は翌1932年3月、清朝(しんちょう)最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政として、満州国の建国を宣言させました。

南満州鉄道
南満州鉄道

 

アメリカは一連の日本の動きを承認しないと発表。中国と日本の提案で、国際連盟理事会は柳条湖事件から満州事変の事実関係を調査するため、イギリスのリットンを団長とする調査団(リットン調査団)を派遣しました。

国際連盟は1933(昭和8)年2月の臨時総会において、「日本の軍事行動は合法的な自衛措置ではなく、満州国は自発的な民族独立運動によって作られたものではない」とする」リットン調査団の報告に基づき、満州国は日本の傀儡国家(かいらいこっか)であると認定しました。

松岡洋右(ようすけ)を代表とする日本全権団は、国際連盟総会から退場し、翌3月、日本は正式に国際連盟からの脱退を通告しました。

テロとクーデターの連鎖が呼び寄せる軍国主義の台頭

この間、日本国内では、財閥や政党などの支配層の無策や腐敗が日本の行き詰まりを招いたとし、支配層に対する憤りが高まります。

その結果軍人や右翼による急進的な体制転換運動が活発になっていきました(国家改造運動)。

1932(昭和7)年、血盟団と呼ばれる右翼グループが井上準之助前大蔵大臣と団琢磨(だんたくま)三井合名(ごうめい)会社理事長を暗殺します(血盟団事件)。

その年の5月15日、一部の海軍青年将校が首相官邸を襲い、犬養毅首相を射殺しました(5・15事件)。

未遂に終わったものは上記以外にも複数あり、これらテロ事件は支配層を大いにおびやかしました。

5・15事件後、首相に穏健派の海軍大将斎藤実(さいとうまこと)が就任し、8年間続いた政党による内閣が終わりを迎えました。

政党内閣はついに太平洋戦争後まで復活しませんでした。

※血盟団…特に名前を持たないグループであり、これは警察が便宜的に付けた名称であり正式名称ではない。

5・15事件後、政党の国内政治に対する影響力は弱まっていきました。

代わって軍部や新興政党、革新や現状打破を訴える勢力が力を増していき、天皇を中心とする国民統合、計画経済の導入などを訴えると同時に、ワシントン海軍軍縮条約(1922年、詳しくは戦前の政治と社会(1)政党政治と揺れる社会参照)と前後して話し合われた、一連の国際的な協調の取決めにの結果できた体制(ワシントン体制)の打破を主張しました。

天皇機関説問題

一方で、天皇の位置付けを巡って、東京帝国大学教授の美濃部達吉(みのべたつきち)による「天皇機関説」が陸軍や一部の政党、右翼等に激しい攻撃を受け、時の内閣(岡田内閣)は天皇機関説を否認。

統治権は神聖で侵すことのできない天皇に属し、かつ無制限であるという認識が社会へ広がっていくことになると同時に、政党政治は前提となる理論的基盤を失っていきます。

※天皇機関説…主権は国家にあり、天皇は法人である国家の最高機関であるとする学説。(出典:デジタル大辞泉

 

2・26事件

1936(昭和11)年2月26日、一部の陸軍青年将校は約1400名の兵を率いて、首相官邸や警視庁などを襲撃。

斎藤実内大臣、高橋是清(これきよ)大蔵大臣、渡辺錠太郎(じょうたろう)教育総監らを殺害し、国会など国政の中心部を4日間にわたり占拠しました。

この2・26事件は、天皇も襲撃部隊を罰することを指示し、反乱軍として鎮圧されました。

しかし、この後陸軍の政治における発言力はいっそう強くなり、政治への介入が強まっていきます。

永田町を占拠する兵士
永田町を占拠する兵士
2・26事件に参加した兵に対する投降勧告文
2・26事件に参加した兵に対する投降勧告文

日中戦争へ

1935年以降、関東軍は天津(テンシン)や青島(チンタオ)を含む華北地域を、国民党の国民政府から切り離し、関東軍の支配下に置こうとします(華北分離工作)。

中国国民の間では日本へ対抗する運き(抗日救国運動)が高まり、それまで内戦状態にあった国民政府と共産党は停戦し、日本へ対抗する姿勢を固めます。

1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近で日中両軍の衝突事件が発生しました。

現地で停戦協定が成立したものの、当時の内閣(第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣)は軍部の圧力に耐えきれず、新たな兵力を中国大陸に送り込むことになりました。

これに対し、国民政府も強硬な態度で日本軍に立ち向かったため、当初の想定をはるかに超えた全面戦争へと突入しました(日中戦争)。

ここに、太平洋戦争終結の1945年までの8年間にわたる本格的な戦争の時代が到来したのです。

 

1931(昭和6)年~1937(昭和12)年の主な出来事

出来事
1931   重要産業法制定:指定産業での不況カルテルの結成容認。統制経済の先駆けとなる
  9 柳条湖事件:奉天郊外柳条湖で関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。これを中国軍に濡れ衣を着せ、軍事行動を開始。その後全満州に拡大(満州事変
1932 3 満州国建国:関東軍は清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政として、満州国建国を宣言させた。
    血盟団事件(2月~3月):右翼の血盟団が井上準之助前大蔵大臣、団琢磨三井合名(ごうめい)会社理事長を暗殺
  5 5・15事件:海軍青年将校が犬養毅(つよし)首相を暗殺
    穏健派海軍大将斎藤実(まこと)が首相に。ここに大正末以降8年続いた政党内閣は崩壊
1933 3 日本、国際連盟から脱退。満州事変に関する国際連盟の「リットン調査団」の報告に基づき出された「日本が満州国の承認を撤回することを求める」勧告に反発
1935
(昭和10)
  天皇機関説事件:統治権の主体は天皇ではなく国家であるという天皇機関説は反国体的であるとの非難から、内閣は「国体明徴声明」を出し、天皇機関説を否認
    華北分離工作:関東軍、華北(中国北部の5省)を国民政府から切り離して支配しようとする工作を進める
1936   日本、第二次ロンドン軍縮会議を脱退。ロンドン条約失効。日本の廃棄通告によりワシントン海軍軍縮条約も失効
  2 2・26事件:皇道派の一部青年将校たちが約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲撃。斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らを殺害。国会を含む国政の中心部を4日間にわたって占拠
    帝国国防方針の改定:南方への進出、ドイツと連携強化しソ連へ対抗、大規模な軍備拡張計画
    日独防共協定:ソ連を中心とする国際共産主義運動の広がりを防止へ対抗するために日本とドイツが結んだ協定(軍事同盟の性格はなかった)
 1937   イタリアが防共協定に参加し、日独伊三国防共協定となる 
   7 盧溝橋(ろこうきょう)事件:北京郊外盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生。当初は現地で停戦が合意されたが、日本側は軍部の圧力に屈して戦線を拡大。全面戦争へと突入した(日中戦争

 

この項は詳説日本史B(山川出版社)を元に構成しました。

 

アイキャッチ画像:2・26事件時の海軍陸戦隊(photo:Wikipedia, public domain)

 

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