前回「日中戦争への道(1)-大陸進出の足掛かり:日清・日露戦争と第一次世界大戦」では、日清・日露戦争から第一次世界大戦および張作霖爆殺事件を通じて少しずつ中国大陸に進出していく様子を見ました。
今回は、日本の大陸へのかかわり方を大きく変えることとなる「満州事変」を中心に見ていきます。
目次
「満州」は民族の名前
「満州」(まんしゅう)とは、元々は中国東北地方に住んでいた民族の名前です。
元来、当て字で「女真(ジョシン)族」と呼ばれていましたが、漢民族を倒して清朝(1616~1912)を打ち立てると、「満州族」(「マンジュ」と発音)と名乗るようになりました。
そして、清朝時代に女真族の出身地である東北地区の三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)のあたりを「満州」と呼ぶようになりました(以下の地図の赤色の部分)。広義には現在の内蒙古自治区の東北部も加えます(下地図のピンクの部分)
日本が占領する以前、この地域の人口は3000万人と言われ、そのうちの約9割、2700万人弱が漢民族、満州族は200万人たらずでした。
そして朝鮮民族100万人、日本人20万人、ロシア系10万人となっており、満州族発祥の土地ではあったものの、実質的には漢民族が大多数を占める土地になっていました。
地理的には万里の長城の北側であり、西はモンゴル(蒙古(もうこ))、北はロシア(旧ソ連)、東は朝鮮半島と接しています。
柳条湖事件から満州事変へ
張作霖の息子で軍閥の跡を継いだ張学良(ちょうがくりょう)が関東軍の意に反して蒋介石の率いる国民政府と手を組んだことで、日本の満州支配強化のもくろみははずれ、逆に日本へ経済的、政治的な圧迫を強まっていきました。
また、中国では、日本を含む諸外国による圧迫に国民の不満が高まり、外国に取られた権益や不平等な取り決めを拒否する運動が起こってきました。
これらの動きに、日本では陸軍の一部や中国大陸での権益を重視する実業家、政治家、活動家を中心として危機感が高まっていました。
そのような中、満州の守備の任務にあたっていた日本陸軍の一軍である「関東軍」は、参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国側のしわざであるとしました(柳条湖事件)。
これを口実に、関東軍は一斉に満州全土へ軍を進め、武力制圧下に置いたのみならず、さらに満州の範囲外である熱河(ねっか)省へ進軍を続け、万里の長城を突破して1933(昭和8)年4月には華北地域に侵入しました(満州事変)。
この謀略は陸軍の一部の人間によって計画・実行されたことであり、当初政府(第二次若槻内閣)は関知していませんでした。
政府は不拡大方針を示しましたが、関東軍の行動は世論の強い後押しもあり、追認される形で止まることはありませんでした。
若槻内閣は事変の収拾に自信を失い、12月、犬養毅(いぬかいつよし)内閣が発足。
この内閣では中国との交渉で解決をめざしたものの、関東軍はまたもや独断で1932(昭和7)年3月、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を担ぎ出し、一方的に「満州国」の建国を宣言しました。
そして5月、5.15事件で海軍青年将校により犬養首相が暗殺され、海軍大将斎藤実(まこと)を首相とする新たな内閣が発足しました。斎藤内閣は9月、満州国を正式に承認しました。
それまで、日本が中国大陸に及ぼす影響は、「点」(都市)や「線」(都市と都市の間を結ぶ鉄道など)に限られていましたが、満州を支配したことで、広大な「面」に変わりました。
陸軍の一グループが独断で起こした武力を伴う政治的行動が、中国大陸の一部を切り取り、日本の傀儡(かいらい)国家を建設するまでになりました。
この間、政府は軍部の独走を止めることができず(または都合よく使い)、行きつくところまで止まることはありませんでした。
以後、日本ではこのような軍部による独走を、政府が追認して事態が変わっていくというパターンが何度も繰り返されていくことになります。
アメリカは満州事変の一連の日本の動きを承認しないと発表。
中国と日本の提案で、国際連盟理事会は柳条湖事件から満州事変の事実関係を調査するため、イギリスのリットンを団長とする調査団(リットン調査団)を派遣しました。
国際連盟は1933(昭和8)年2月の臨時総会において、「日本の軍事行動は合法的な自衛措置ではなく、満州国は自発的な民族独立運動によって作られたものではない」とする」リットン調査団の報告に基づき、満州国は日本の傀儡国家であると認定しました。
松岡洋右(ようすけ)を代表とする日本全権団は、国際連盟総会から退場し、翌3月、日本は正式に国際連盟からの脱退を通告しました。
なぜ日本は満州にこだわったのか
満州国の成立(日本側の一方的な解釈ではあるが)により、この地方における日本の計画は一つの完成形に達したと言えます。で
は、なぜこれほど日本は「満州」にこだわったのでしょうか。その理由は時代によって、また人(組織・立場)によって多少の変化はありますが、基本的には「経済的理由」と「軍事的理由」の二つが挙げられます。
経済的理由
関東大震災、金融恐慌、世界大恐慌など、1920年代から30年代初頭にかけて、日本は経済的に厳しい状況が続きました。
特に農村の状況は大変ひどいもので、経済活性化が求められましたが、日本国内では満足な仕事も得られず、海外へ多くの日本人を移民として送っていました。
その一方で、大量の移民を受け入れてきたアメリカは、1924年に移民の受け入れを厳しく制限する法律を定め、日本は移民の受け入れ先のひとつを失うこととなりました。
日本がロシアから譲り受けた鉄道をベースとして新たに成立させた「南満州鉄道」(略称「満鉄」(まんてつ))を中心として、多くの新興産業が満州では生まれていました。
また、広大な土地には中国人はいたものの、まだまだ開拓の余地があると考えられました。
これらのことから、日本で満足に仕事にありつけない人々の受け入れ先として大いに期待されました。
さらに、石炭などの豊富な資源供給地としての期待も背負っていました。
軍事的理由
戦前の日本の仮想敵国は、陸軍はソ連(ソビエト連邦)、海軍はアメリカでした。
朝鮮半島を勢力下に収めて以降、日本に最も近く、ソ連と直接国境を接しているのが満州です。
朝鮮半島、ひいては日本本土をソ連の攻勢から守る最前線の地域として、陸軍にとって満州は非常に重要であると考えられていました。
満州から華北の支配強化を目指して:華北分離工作
満州事変は、1933年5月、「塘沽(タンクー/とうこ)停戦協定」が日本と中国側で結ばれることにより終結しました。
この協定では、満州の西南の東西約200km、南北約100km、ほぼ九州と同じ面積の地域を非武装中立地帯とすることが定められました。
これは表向きは満州を守るための緩衝(かんしょう)地帯でしたが、日本が満州よりさらに南へ進撃するための布石とも言えるものでした。
日本軍は華北(かほく)と呼ばれる、北京や天津を含む満州の南側にあたる地域をさらに勢力下に収めようとし、1935(昭和10)年11月、ここに「冀東(きとう)防共自治委員会」を設立。
西南へ勢力を広げる足掛かりとしました。「冀」とは河北(かほく)と呼ばれるこの地域の古い呼び名です。
「冀東」は河北の東部という意味になります。また、「防共」は「共産主義を防ぐ」という意味です。
この冀東防共自治委員会は後に「冀東防共自治政府」と名を変えます(以降「自治政府」と省略)。
自治政府は、中国への輸出に高い関税がかけられることを利用し、関税よりも安い税率を徴収することで、中国への輸入を行う密輸を公然と行っていました。
密輸の収入は日本軍の資金源となり、中国国内をかく乱するための謀略の資金源としても使われました。
密輸の規模はどんどん拡大され、華北のみならず華中、華南へと広げられました。
1935年に密輸された商品は、統計上の輸入額の20%に達したと言われます。関税収入はこの当時の中国政府の財源の約半分を占めていたため、中国にとって経済的にも大きな打撃となりました。
今回は満州事変と、その後の華北分離工作を概観しました。満州事変から満州国建国の流れは日本軍部にとって大成功と言えるものであり、さらに中国南部に向かって勢力圏を広げようとする動きが生まれました。
そして中国との軋轢(あつれき)は最高潮に達し、いよいよ本格的な戦争を迎えることとなります。
この項は
を元に構成しました。
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photo: wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:大連大広場と満鉄