崩壊する戦線(2)―玉砕する太平洋の島々(概要)

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1943(昭和18)年2月に日本軍がガダルカナル島を放棄して以降、太平洋に散らばった日本が占領する島々では、圧倒的な攻撃力を誇る連合軍の前に、守備隊が死を覚悟した絶望的な突撃をし、ほぼ全滅する「玉砕」(ぎょくさい)が繰り返されました。

本項では、太平洋の島々の代表的な戦いを概観し、日本軍が追い詰められていく状況を追います。

玉砕

玉砕(ぎょくさい)とは、辞書によれば「玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこととあります。アリューシャン列島・アッツ島の日本軍守備隊が敵に突撃してほぼ全滅した時、大本営が発表の中で用いられたのが最初とされます。

玉砕は「北斉書」という、636年に書かれた中国の書物から取られた言葉で、「全滅」を美化して呼ぶために用いられました。

日本軍は軍人の心構えを述べたとされる「戦陣訓」にあるように、捕虜(俘虜)となることは最大の恥辱(ちじょく)とされ、捕虜になるくらいならば死ぬべき、と教育されていました。

そのため、戦局が絶望的になると、降伏するのではなく全滅を覚悟で突撃する玉砕が繰り返されるようになりました。「天皇陛下万歳」を叫びながら最後の突撃をする場合が多く、連合軍からは "banzai attack" と呼ばれました。

生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ
「戦陣訓」より

※出典…デジタル大辞泉

本項では、太平洋の島々の玉砕や脱出の様子を概観します。以下の地図にあるように、太平洋上に散らばる大変広い範囲で日本とアメリカ軍を中心とする連合軍の間で死闘が繰り広げられました。

 

玉砕のあった太平洋の島々(一部)青=アッツ島(アリューシャン列島)
紫=ギルバート諸島
ピンク=マーシャル諸島
緑=サイパン島

 

アリューシャン列島(アッツ島・キスカ島)

1942(昭和17)年6月、ミッドウェー作戦とほぼ同じタイミングで、連合艦隊は北方の「アリューシャン列島」に対する攻撃を行い、アメリカ領であったアッツ島、キスカ島を制圧。ここに守備兵を置いていました。これは北方の守りを固めると同時に、アメリカ本土を占領したという宣伝のためでもありました。

 

アリューシャン作戦 要所図青=アッツ島
紫=キスカ島
緑=アダック島
オレンジ=ダッチハーバー

初の「玉砕」となったアッツ島

アッツ島における日本軍守備隊は約2500名でした。それに対し、1943年5月12日、アメリカ軍は1万1000人の部隊で上陸。空母1隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦19隻を援護に伴っていました。

大本営はアメリカ軍上陸後、増援部隊を送ると守備隊に連絡をしたものの、船を動かす燃料が不足していたことから部隊を送るのは不可能と判断し、5月23日玉砕を命令しました。

5月29日、わずか300名まで減った日本軍守備隊は、最後の突撃を行い、意識を失い捕虜となった29人(27人との説も)以外全員戦死しました。

アッツ島に上陸したアメリカ軍
アッツ島に上陸したアメリカ軍
アッツ島玉砕
全滅した日本兵の遺体

 

奇跡的な救出作戦が展開されたキスカ島

一方でキスカ島には、日本陸海軍合わせて5000人以上が守備に当たっていました。

アッツ島へアメリカ軍が上陸したことを受け、キスカ島にも押し寄せてくるのは時間の問題となりました。

玉砕したアッツ島の二の舞となるのを避けるため、兵員を撤収させることとなりました。

当初潜水艦で救出を試みようとしたものの、アメリカ軍の警戒が厳重になり、潜水艦2隻が行方不明、1隻が座礁するなどしたため、速度の速い駆逐艦を中心とした艦隊で救出をすることになりました。

1回目は天候が思わしくなく中止に、続く2回目はアメリカ軍の哨戒機を発見したことで中止。

7月29日、3回目の救出によりついにキスカ島守備隊全員を撤収することができました。

アメリカ軍はついにこの撤収作戦に気付かず、8月14日に激しい艦砲射撃の後上陸し、濃霧の中日本軍がいるという思い込みの下、同士討ちが多発し、死者95人、負傷者78人が出たと言われています。

 

「絶対国防圏」の設定

日本軍が各地で連合軍に撃破されている状況に対し、日本軍の作戦の中枢である「大本営」は、1943年9月、「絶対確保すべき要域」(通称「絶対国防圏」)を設定しました。

それは、千島、小笠原、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマ(現ミャンマー)を結ぶラインで、日本が必要な資源を確保し、かつ敵から本土を防衛するのに最小限必要な地域を示したものでした。

日本の「絶対国防圏」緑=千島
ピンク=小笠原
紫=サイパン
青=スンダ海峡
茶=ビルマ
※この地図は参考とするために作成したものであり、正確さを保証するものではありません。

 

ギルバート諸島(タラワ・マキン)

アメリカ軍はサイパンを中心とする「マリアナ諸島」を制圧し、日本本土を爆撃する計画を考えていました。マリアナ諸島攻略をするにあたり、背後から攻撃を受けないようにギルバート諸島の日本部隊を駆逐する必要がありました。

ギルバート諸島青=タラワ環礁
オレンジ=マキン環礁(ブタリタリ島)

そこで、1943(昭和18)年9月下旬より、ギルバート諸島のタラワ環礁(かんしょう=円形に形成されるサンゴ礁の島)、マキン環礁の日本軍を攻撃するべく、機動部隊による空襲をしつつ、島の偵察を行いました。

そして11月21日、数日前からの激しい艦砲射撃に引き続いて1万8000人もの兵力で上陸作戦を開始。

約4500人の守備隊は、以前から島に堅固な陣地を築いており、上陸してくるアメリカ軍に対し猛烈な攻撃を浴びせました。アメリカ側にも多大な犠牲が出たものの、約150名の捕虜を残し、ほぼ全員が玉砕しました。

タラワ・ベティオ島に配備された日本軍高射砲(九九式八糎高射砲)
タラワ・ベティオ島に配備され破壊された日本軍高射砲(九九式八糎高射砲)
タラワ
タラワ戦闘終結後の海岸。遺体の多くは海兵隊員のもの。破壊されたアメリカ軍M3戦車に腰をかけている兵隊が見える。 Sprawled bodies on beach of Tarawa, testifying to ferocity of the struggle for this stretch of sand. November 1943. (Navy)
Exact Date Shot Unknown
NARA FILE #: 080-G-57405
WAR & CONFLICT BOOK #: 1342

 

続いてマキンにもアメリカ軍が上陸。約700人の守備隊に対し、アメリカ軍は約6500人の規模で上陸を試み、4日間の激戦の末、日本軍は捕虜105名(そのうちのほとんどが戦闘に参加しない「軍属」)を残し、全滅しました。

サンゴ礁の浅い海を歩いてマキンに上陸するアメリカ兵
サンゴ礁の浅い海を歩いてマキンに上陸するアメリカ兵

 

マーシャル諸島

ギルバート諸島占領後、アメリカ軍はマーシャル諸島へと向かいました。マーシャル諸島の「クェゼリン環礁」は世界最大規模で、最適な艦隊停泊地であると同時に、マリアナ諸島への中継点としても好都合であることから、アメリカ軍としてはぜひとも確保したい場所でした。

日本軍はクェゼリン島に約5100人、環礁北方のルオット、ナムル両島に約3000人を駐屯させていました。

クェゼリン環礁
クェゼリン環礁。南端がクェゼリン島。北端 東側がナムル島、西側がルオット島(ロイ)

 

1944(昭和19)年1月30日よりアメリカ軍は空爆と艦砲射撃を徹底して行い、日本軍の航空機、飛行機、防御陣地、通信施設などが破壊されました。爆薬、食糧も大部分が失われました。

そして2月1日クェゼリン島に、2日ルオット、ナムル島に上陸を行い、日本軍は激しく抵抗したものの、2月4日までに玉砕・全滅しました。

アメリカ軍上陸前の徹底的な空爆・艦砲射撃で破壊されたクェゼリン島
アメリカ軍上陸前の徹底的な空爆・艦砲射撃で破壊されたクェゼリン島
クェゼリン島
クェゼリン島でアメリカ軍兵士が火炎放射器を使い日本兵を陣地からいぶり出そうとしている。ほかの兵士は小銃を構え日本兵が出てくる場合に備えている

それ以外にもマーシャル諸島の多くの島々で日本・アメリカの間で熾烈な戦闘が行われ、いずれの島でも日本軍はほぼ全滅。主要な島における戦いでの戦死率は9割以上となりました。

 

マーシャル諸島の主な島における戦闘の日本軍被害

島名

兵力

損害

戦死率

クェゼリン 約5100人 戦死約4800人
捕虜300人
94%
ルオット・ナムル 約3000人

戦死約2540人
捕虜380人

85%
エンチャビ 1276人 戦死1260人
捕虜16人
99%
エニウェトク 808人 戦死785人
捕虜23人
97%
メリレン 1476人 戦死1451人
捕虜25人
98%
合計 約11,660人 戦死約10,840人
捕虜744人
93%

表出典:「オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争

連合艦隊司令部の崩壊

連合艦隊司令部の移動

ソロモン諸島の攻略にあたり、アメリカ軍は日本軍の最大の拠点であり、9万人の兵力を擁するラバウルを上陸・制圧せず、空爆および周囲の島を制圧することでラバウルを無力化する方針を決めました。

山本五十六長官が撃墜され、古賀峯一長官へと交代した後、海軍航空隊の拠点は、爆撃にさらされ制海権も脅かされるようになったラバウルから、北に位置する日本海軍の一大拠点であるトラック諸島へと移動しました。

そしてトラック諸島へもアメリカ軍機動部隊の空襲が迫り、連合艦隊司令部はパラオ諸島へと移動をします。

 

連合艦隊司令部の移動と遭難地点青=ラバウル
ピンク=トラック
紫=パラオ
緑=フィリピン・ダバオ(司令部移動目標地点)
オレンジ=セブ島沖(参謀長機不時着地点)

 

古賀峯一司令長官の遭難と機密漏洩事件(海軍乙事件)

パラオへと移った連合艦隊司令部ですが、パラオにもアメリカ軍の空襲があるという情報が入り、1944(昭和19)年3月31日、水上機二機に分乗し、急遽フィリピンの「ダバオ」を目指して移動を行いました。

しかし、悪天候に阻まれ、古賀長官の乗った機は行方不明になり、長官機の搭乗者は誰も生存者はありませんでした

もう一機には福留参謀長らが乗っていましたが、こちらはフィリピンのセブ島沖に不時着しました。

フィリピンは日本軍の勢力下ではありましたが、いたるところにアメリカ軍の指示を受けて動くゲリラがおり、福留参謀長らはゲリラに捕まってしまいました。

フィリピンの日本陸軍までが部隊を出し、武力を背景に交渉したところ、参謀長らはゲリラから解放されました。

しかし、参謀長らは連合艦隊の作戦内容や兵力等が記された機密文書を所持しており、逃亡の際に投棄したものの、ゲリラに回収され、連合軍の手にわたってしまいました。

これによって連合艦隊の作戦と戦力の全貌が敵に筒抜けとなってしまいました。この一連の事件は「海軍乙事件」と呼ばれました(山本長官機撃墜事件は「海軍甲事件」)。

古賀峯一海軍大将
殉職した連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将 出典:水交会編 (1985年) 回想の日本海軍、原書房

 

まとめ

連合軍の本格的な反攻作戦の前に、太平洋に浮かぶ小さな島々に十分な戦力を回すことのできなくなった日本軍は、キスカ島を除いては守備隊の救出も満足にする余裕がなく、各地で玉砕という名の全滅を繰り返しました。

当然戦力はそのたびに大きく減っていきました。また、1943年春以降、輸送船の不足などにより、燃料が各地で不足し、満足に作戦遂行ができない状況が浮き彫りになっていました。

玉砕のあった太平洋の島々は、マリアナ諸島(サイパン・グアムなど)とフィリピンへつながる通り道であり、それら日本軍にとって戦略上きわめて重要な地点を失うことに直結していきます。

そして海軍乙事件により、山本長官に引き続き古賀長官までも失った連合艦隊は、大きな打撃をこうむりました。

加えて、機密文書が連合軍に漏れたことで、それまでも暗号は解読されていたものの、より具体的で詳細な作戦情報と戦力が敵に知られることとなりました。

 

本項は「オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争」を元に構成しました。

photo: wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:マキンに放棄された二式大艇を眺めるアメリカ兵

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