1944(昭和19)年6月、12万7000人の上陸部隊を乗せた輸送船団と、約900機の航空機を搭載した空母15隻からなる、計500隻のアメリカ軍大艦隊がマリアナ諸島沖に突如出現しました。
日本が設定した「絶対国防圏」の中で最も重要な地点のうちの一つであり、「難攻不落」と言われたサイパンが陥落し、日本軍機動部隊も壊滅してしまったマリアナ諸島をめぐる戦いとはどのようなものだったのでしょうか。
目次
アメリカはどのようにマリアナ諸島攻撃を決めたか
「崩壊する戦線(2)―玉砕する太平洋の島々(概要)」で見たように、1943(昭和18)年から1944年初頭にかけ、アメリカ軍は日本が占領する太平洋の島々を攻め落としていきました。
日本軍としては、アメリカ軍はニューギニアの後はフィリピンに向かってくるだろうと予想しました。
たしかにアメリカ軍はニューギニアからフィリピンを結ぶ線で向かってきましたが、それはマッカーサー率いる陸軍の動きでした。
合衆国艦隊司令長官のアーネスト・キング大将率いる海軍は別の動きをしており、サイパン島を擁する「マリアナ諸島」を攻め落とすことを次の大きな目標としていたのです。
これに先立ち、アメリカ軍内部では陸軍と海軍で深刻な意見対立がありました。
陸軍は元々アメリカが植民地を築き(1946年に独立を約束していた)様々な利害関係を持っていたことに加え、日本防衛の拠点として現地の軍隊を育て上げてきたフィリピン奪還を重視した一方、海軍は太平洋を一気に西へ進み、マリアナ諸島を経て中国大陸へ到達し、日本の南方との補給線を断つ方が日本を降伏させる近道であると主張していました。
アメリカでは両者の意見対立から、陸軍と海軍が互いに連携しつつも、それぞれの主張するルートで並行して進撃することになったのです。
サイパン(マリアナ諸島)と他の地点の位置関係
青=サイパン島(マリアナ諸島)
ピンク=グアム島(マリアナ諸島)
緑=ビアク島(ニューギニア)
紫=ダバオ(フィリピン)
茶=台湾
日米激突までの経緯
アメリカ軍ビアク島へ
日本陸海軍が、次のアメリカ軍の総攻撃目標として想定していたのは、ニューギニア北方に浮かぶ「ビアク島」でした。
ここは約1万人の日本兵がおり、連合軍にとってニューギニア攻略上必要と考えられたためです。
そして5月27日、実際にアメリカ軍はビアク島に上陸を開始。ビアク島は飛行場の適地が多く、ここを取られるとフィリピンの油田も敵の爆撃機の攻撃範囲に入り、またパラオなど日本軍の需要拠点も敵機の攻撃にさらされてしまうため、ビアク島を奪取されることはなんとしても避ける必要がありました。
そのため、連合艦隊は「大和」「武蔵」を中心とする戦艦部隊をビアク島方面に向かわせると同時に、太平洋の島々に集結させていた基地航空部隊の航空機をビアク方面へ移動させました。
サイパン空襲と連合艦隊始動
しかし、6月11日、アメリカ軍はサイパンにはまだ来ないだろうという日本軍の予想を裏切り、サイパンに空襲を開始します。
サイパンは絶対国防圏※の内側に位置し、マリアナ諸島の中心的な島として多くの日本人植民者が住んでいたばかりでなく、軍事的にも非常に重要な場所でした。
そのため、サイパンは日本軍が最も守備を固めている拠点の一つであり、この島へ連合軍が上陸を挑む可能性は低いだろうと日本軍首脳は考えていました。
※絶対国防圏…1943年9月に大本営が設定した、日本の国防上絶対に守るべきとされた範囲。詳しくは「崩壊する戦線(2)―玉砕する太平洋の島々(概要)」参照。
アメリカ機動部隊がサイパン近海にいるということが分かり、6月15日、連合艦隊は空母機動部隊出撃を命じます。
日本軍の空母部隊は、1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦で大敗し、その後もガダルカナル島やニューギニアをめぐる一連の「ソロモン海」における海戦で大きな打撃を受けており、ようやく再建されつつある頃でした。
空母部隊の再建とは、空母そのものの修理・増強はさることながら、空母に搭載する各種航空機(艦載機(かんさいき)=艦上戦闘機・爆撃機・攻撃機など)の補充、そしてなにより失われたパイロットを新たに育成することなどを意味します。
これには長い時間がかかるものでした。そのため、1942年10月に起きた「南太平洋海戦」以降、日本・アメリカ両軍の機動部隊による戦闘は起きていませんでした。
南太平洋海戦等ガダルカナル島をめぐる戦いは ➡ 「ガダルカナル島をめぐる戦い(2)激闘-陸・海・空の死闘」
アメリカ軍サイパン島上陸開始
6月11日から始まったサイパン島への空襲と艦砲射撃により、サイパンの主な防御陣地は破壊されました。そして6月15日、ついにアメリカ軍はサイパン島南部から上陸を開始しました。
サイパン島を守備する日本軍は約4万3000人でしたが、中心的な兵力は陸軍の約1万1800人程度(第43師団)で、他は兵力としては不十分でした。
サイパンへ送られてくる途中に輸送船が潜水艦で撃沈され、兵器を失い身一つで上陸した部隊であったり、海軍の艦隊要員約1万5000人は、航空部隊の地上要員や警備専門の陸戦隊等であり、本格的な地上戦闘ができる兵力ではありませんでした。
アメリカ軍は上陸に当たって海兵隊の大軍を送り込みましたが、水際で日本軍の猛反撃に遭い、複数の現場指揮官が同時に負傷するなど、混乱を極めました。
しかしながらなんとか上陸に成功し、この日のうちに幅4キロ、奥行1.6kmにわたって海岸を占拠しました。しかしこれはアメリカ軍の予定の4分の1にしか過ぎず、さらに上陸した約2万人のうち1割が死傷するなど、予想以上の被害を被りました。
日本軍は、アメリカ軍上陸の日より、得意とする夜襲(やしゅう)※を3日間にわたり敢行しました。
しかし、部隊の結集が間に合わず大規模に行えなかったり、アメリカ軍が大量の照明弾を打ち上げて昼間のように戦場を明るくし、砲撃を集中させたため有効な打撃を与えることができませんでした。
そして1週間の戦闘で兵力の6割を失った日本軍は、島の北部へ向け退却を開始しました。
※夜襲(歩兵部隊の場合)…夜、敵の陣地近くまで密かに忍び寄り、一斉に銃撃や白兵突撃を行い、敵を混乱させ被害を拡大させる戦法。日露戦争当時より日本陸軍の得意の戦法とされた。
マリアナ沖海戦
急速に移動した日本軍機動部隊とマリアナ沖に集結するアメリカ軍機動部隊は、サイパン島で激しい陸上戦が繰り広げられていた6月19日、ついに激突しました。
小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊は、新鋭空母「大鳳」(たいほう)を筆頭に、他に2隻の大型空母、6隻の小型空母、そして439機の艦載機からなり、日本海軍がようやく再建した大空母部隊でした。
小沢中将はこの乾坤一擲(けんこんいってき=のるかそるかの大勝負)の戦いに、「アウトレンジ戦法」で臨もうと考えていました。
アウトレンジ戦法
アウトレンジ戦法とは、航空機の航続距離の違いを利用し、敵の航空機が届かない距離から攻撃を仕掛ける戦法です。
日本軍機は防御装備が貧弱で機体が軽いため、アメリカ軍機よりも航続距離が長く、アメリカ軍機が日本空母へ届かない遠距離から攻撃を仕掛けることができました。
それにより、アメリカ空母部隊は打撃を受ける一方、日本側の空母は無傷でいられると考えました。しかし、長距離を目標に向かって飛行し、場合によっては敵と空戦しつつ、さらに敵空母へ攻撃を行って再び戻ってくるというアウトレンジ戦法は高い技量が必要とされました。そのため、機動部隊内には反対意見もあったものの、小沢中将はこの戦いに自信を持っていました。
そして6月19日早朝、アメリカ機動艦隊を発見し、次々に日本空母から航空機が発進しました。予定通り敵航空機の射程圏外から発進することができ、この日の攻撃は成功間違いなしと機動部隊司令部は確信しました。
しかし、結果的にはこの時出撃した約300機のうち、約100機は敵を発見できずに帰還し、敵空母を発見した残りの日本機はほとんどが撃墜され、アメリカ空母上空に達した攻撃機は20機前後しかありませんでした。
日本側の攻撃は、アメリカ軍戦艦や空母等にわずかな被害を与えたにとどまる一方、艦載機の多くを失い、アウトレンジ戦法は失敗に終わりました。
日本機動部隊敗退の要因
それには、いくつもの理由がありました。
- 【技量不足】日本軍パイロットは、これまでの戦いで歴戦のベテランパイロットを多く失い、急いで補充した経験不足の若手が多かった。さらに、マリアナ沖海戦前には敵の潜水艦の妨害もあり、十分な訓練を積むことができなかった。そのため、敵を発見できず引き返した機が続出したうえに、敵機との空中戦で簡単に撃墜された。
- 【技術革新1】アメリカ軍はこれまでも活用してきた「レーダー」をさらに発展させ、日本軍機が近づいてくる約270㎞前からその存在を探知した。各艦で得たレーダーの情報は空母の戦闘情報センターに集められ、戦場の様子を全体的・網羅的に把握し、そこから各攻撃部隊・航空機に無線電話で指示を出した。日本軍にもレーダーはあったが、性能が悪く、敵の状況把握の中心的存在にはなれなかった。また日本軍は無線通信の精度も悪く、特に航空機には無線機を積んでいたものの、役には立たなかった。
- このため、アメリカ軍は襲来する日本軍機の存在をいち早くキャッチし、すぐに迎撃部隊を飛び上がらせ、攻撃に都合の良い場所で待ち伏せした。たとえば、64機からなる日本軍攻撃部隊(そのうち戦闘機である「零戦」は14機)がアメリカ軍機400機以上に待ち伏せされ、41機が撃墜された。
- 【技術革新2】アメリカ軍は「VT信管」(ぶいてぃーしんかん)と呼ばれる、新たな起爆装置を開発していた。この装置は、発射した砲弾が敵機の約30メートル以内に入ると、自動的に爆発することを可能にするもので、敵機に命中しなくても爆弾の破片と爆風でダメージを与えることができた。
- 【技術革新3】アメリカ軍は最新鋭の「F6F」(通称「ヘルキャット」)という戦闘機を多数そろえていた(初登場は約1年前)。開戦以降アメリカ海軍の主力であったF4F(通称「ワイルドキャット」)は単独では日本海軍の主力戦闘機「零戦」(れいせん、ぜろせん)にかなわないことが多かったが、F6Fは零戦をはるかにしのぐ高速(最大速度で約50㎞/h早い)と攻撃力の高さで(アメリカ軍機の防御力は元々日本軍機より高い)、ベテランパイロットでなければ零戦と言えども太刀打ちできないようになっていた。また、アメリカ軍は1年でパイロットの育成を終わらせ前線で戦えるようにし、短期間で大量にパイロットを養成する仕組みを整えていた。
- 【情報流出】「崩壊する戦線(2)―玉砕する太平洋の島々(概要)」で見たように、この年の3月末(マリアナ沖海戦の2か月半前)、福留連合艦隊参謀長らの手から連合艦隊の機密情報が奪われ、作戦内容や兵力が敵に筒抜けとなっていた(海軍乙事件)。日本側は機密書類は敵の手に渡っていないと判断しており、情報は漏れていないと考えていた。加えて、ミッドウェー海戦の勝敗を決する理由の一つになった「暗号解読」はこの時も続いており、機密書類以外にも日本軍の作戦は多くが漏れていた。
- 【兵力の差】日本海軍は空母部隊をようやく再建したところだったが、アメリカ軍はさらに多くの兵力を投入していた。マリアナ沖海戦では、アメリカ側は正規空母8隻、軽空母7隻の合計15隻(日本側大型空母3隻、小型空母6隻、合計9隻)に896機の艦載機を搭載した(日本側439機)。主力戦闘機のF6Fだけで475機あり、日本軍の艦載機すべてより多かった。日本側は太平洋に浮かぶ島々に約20の滑走路を建設し、それらの島々を沈まない空母=不沈空母(ふちんくうぼ)と見立て、約1600機の航空機を基地航空隊として配置していた。これらを不足する空母の代わりにしてアメリカ軍の戦力をそいでいくつもりだったが、それらの島々はマリアナ沖海戦以前にアメリカ軍機動部隊の空襲によってほとんど攻め潰されており、基地航空隊は壊滅状態だった。サイパン島を始めとするマリアナ諸島の航空部隊も、事前の空襲で壊滅していた。そのため、日本軍はほぼ機動部隊の艦載機だけで戦うしかなく、実質的に戦力はアメリカの半分だった。
日本機動部隊の消滅「マリアナの七面鳥狩り」
そして今度は日本側が反撃を受けることになりました。新鋭艦の空母「大鳳」、歴戦の大型空母「翔鶴」(しょうかく)の二隻がアメリカ軍潜水艦の攻撃で沈没。
さらに翌20日、アメリカ軍艦載機の攻撃により空母「飛鷹」(ひよう)が沈没、他の空母4隻も大きな打撃を受けました。
439機あった日本機動部隊の艦載機は最終的に35機まで減り、これまで苦心して連合艦隊が養成してきた兵力が、2日間でほぼすべて消滅してしまいました。
日本軍機動部隊は北方へ退避し、マリアナ沖海戦は終了しました。アメリカ兵の間では、いとも簡単に日本軍機が撃墜されたことから、動きののろまな「七面鳥」(しちめんちょう、ターキー、turkey)を狙い撃ちする様にたとえ、「マリアナの七面鳥狩り」(Great Marianas turkey shoot)という言葉まで生まれました。
次は ➡ サイパン島の激戦