崩壊する戦線(4)-絶対国防圏の崩壊:マリアナ沖海戦とサイパン陥落

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サイパン島の激戦

日本軍とアメリカ軍は、サイパン島の中部にある「タッポーチョ山」などをめぐり激しい戦いを繰り広げ、時に日本軍がアメリカ軍指揮所を襲撃するなどの展開もありました。

日本兵は爆弾を抱き、戦車へ突撃するなどの白兵戦も行います。しかし、全体としてアメリカ軍が日本軍を北へ追い詰め、ついに日本軍は最北端の「マッピ岬」周辺に追い詰められました。

投降が固く禁じられていた日本軍は、玉砕(ぎょくさい)の道を選びました。

※玉砕については「崩壊する戦線(2)―玉砕する太平洋の島々(概要)」を参照。

 

サイパン島要所図

青=マッピ岬(バンザイクリフ)
茶=タッポーチョ山
紫=アメリカ軍第二海兵師団上陸目標周辺
オレンジ=アメリカ軍第四海兵師団上陸目標周辺

 

 日本軍についに「玉砕命令」が下されました。サイパンで日本軍将兵に配布された文書にはこのように書かれています。

サイパン島守備兵に与える訓示

サイパン島の皇軍将兵に告ぐ
 米軍進攻を企図してより茲(ここ)に二旬余、全在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は克(よ)く協力一致、・・・中略・・・今や戦うに資材なく攻むるに砲類悉(ことごと)く破壊し、戦友相次いで斃(たお)る。・・・中略・・・今や止まるも死、進むも死、生死須(すべか)らくその時を得て帝国男児の真骨頂あり。今米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久の大義に生きるを悦(よろこ)びとすべし。
 茲に将兵と共に聖寿(せいじゅ)の無窮(むきゅう)、皇国の弥栄(いやさか)を祈念すべく敵を索(もと)めて発進す。
 続け

出典:「図説 太平洋戦争」より。現代表記にしてある。原文は旧仮名遣いで句読点はない。カッコ内・太字筆者追加。

〇語句の説明
旬…10日間/軍属…軍隊の行動を支える様々な仕事(補給、整備、工事等)に従事する人。軍人とは待遇が異なる/須らく…必然的に/虜囚…捕虜/従容…ゆったりと落ち着いている様/悠久…果てしなく長く続くこと/聖寿…天皇の年齢・寿命/無窮…無限・永遠/皇国…日本/弥栄…ますます栄えること

サイパン島の守備隊を指揮していた日本軍司令官三名は、最後の突撃の前、マッピ岬に近い洞窟内で割腹自決(かっぷくじけつ=切腹すること)しました。

真珠湾攻撃以来、連合艦隊の中心的な存在の一人であった南雲忠一中将(この時第六艦隊司令長官)、陸軍第四十三師団長斎藤義次中将、陸軍第三十一軍参謀長井桁敬治少将の三名です。

南雲中将以下海軍守備隊幹部
南雲中将以下海軍守備隊幹部 出典:Kodansha

 

7月7日午前三時、マッピ岬から約5キロ南方に集結した約3000人の突撃参加者は、指揮官を先頭にして突進を開始しました。

この3000人には、在郷軍人会、警防団員、青年団員など、軍人でない人も多数含まれていました。

「天皇陛下万歳!」を叫びながら、約10キロ先の街を目指して突撃しました。アメリカ軍は前日に日本軍捕虜からこの日の突撃のことを聞き出しており、全軍が警戒態勢に入っていました。

突撃部隊はアメリカ軍の第一線の部隊を突破し、前線部隊の8割を殺傷するなどかなりの損害を与えましたが、態勢を立て直したアメリカ軍の反撃に次々に倒れていきました。

サイパンの市街戦
市街戦

 

最北端のマッピ岬まで追い詰められた日本の民間人は、次々に崖の下に降りて入水(水に入ること)したり、崖から身を投げ自決していきました。

アメリカ軍は拡声器で投降(降参して出てくること)を日本語で呼びかけましたが、多くの日本人はそのまま自決していきました。

民間日本人の自決者は8000人から1万2千人ほどと推定されています。多くの自決者が出たマッピ岬の先端は現在「バンザイ・クリフ」(万歳の崖)と呼ばれ、さらにその手前には「スーサイド・クリフ」(自殺の崖)と呼ばれる崖があります。

サイパンで死体で折り重なった洞窟から赤ん坊を救出するアメリカ軍兵士
死体で折り重なった洞窟から赤ん坊を救出するアメリカ軍兵士

 

 

テニアン島・グアム島の玉砕

マリアナ諸島にはサイパン以外にも、テニアンとグアムという、重要な島がありました。アメリカ軍はサイパン占領から10日後の7月21日にグアム島に、さらにその3日後にはテニアン島へ上陸しました。

 

サイパン・テニアン・グアムの位置関係

青=サイパン島
緑=テニアン島
紫=グアム島

 

テニアン島には日本兵が陸海軍合わせて約8000人、日本民間人約1万3000人、それに朝鮮人約2700名がいました。

アメリカ軍は伊豆大島をわずかに大きくした程度のこの島に、サイパン島に送り込んだ兵力に匹敵する5万4000人を投入。

上陸10日日後の8月1日、アメリカ軍はテニアン島占領を宣言しました。

テニアン島で破壊された日本軍95式軽戦車
破壊された日本軍軽戦車

 

さらに大きな島であるグアム島は現地住民も多く、アメリカ軍にとってテニアンより大きな脅威になると考えられていました。

しかし徹底的な艦砲射撃と空爆、そして約5万5千人の上陸部隊の猛攻により、日本軍守備隊2万810人のうち、8割近くが初日の7月21日に戦死してしまいました。

一方のアメリカ軍も多大な損害を出しましたが、日本軍の敗退は避けがたく、上陸から3日目には、翌日真夜中に最後の突撃(玉砕)をする旨、命令が出ました。

総攻撃は死者約3000人を出したものの失敗し、生き残った兵は北へ北へと逃げ、数を減らしていきました。

戦跡ピティ・ガンズに残る50口径三年式14糎単装砲
今もグアム島に残る日本軍の大砲

 

マリアナ諸島陥落の影響

マリアナ諸島は「絶対国防圏」の中に位置する、日本の防衛にとって極めて重要な場所でした。

日本軍は陸海軍共に、マリアナ諸島防衛に全力を注ぎましたが、短期間のうちに島々はアメリカ軍の手に落ち、さらに日本の機動部隊が壊滅的な打撃を受けるという結果なりました。

その後マリアナの島々にはアメリカ陸軍の最新鋭爆撃機「B-29」が大量に配備され、日本本土へ直接爆撃を繰り返しました。

マリアナ諸島が陥落してから約3か月後の1944(昭和19)年秋より、本土空襲は始まりました。翌年3月10日には東京へ300機以上のB-29が押し寄せ、一晩で下町を焼き尽くし約10万人の犠牲者を出しました。

その後も各地で大規模な空襲を繰り返し、日本の主な都市はほぼすべてB-29の焼夷弾(しょういだん)によって焼き尽くされました。

そして、広島市、長崎市へは、このマリアナ諸島から飛び立ったB-29によって原爆が投下されました。

 💡 本土空襲の概要はこちら ➡ 【概要】本土空襲
 💡 B-29とは ➡ 日本を襲う銀色の怪鳥-B-29とはどのような飛行機か 

 

大量のB-29が並ぶサイパンの飛行場
大量のB-29が並ぶサイパンの飛行場

 

当時政権を握っていた東条英機内閣は、サイパン陥落の責任を取り、7月18日総辞職しました。日本の設定した絶対国防圏はいとも簡単に破られ、いよいよ日本は窮地に立たされることとなります。

 

本項は「図説 太平洋戦争」「マリアナ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 8)」「オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争」を元に構成しました。

photo: wikimedia, public domain
トップ画像:F6F ワイルドキャット

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