東京大空襲(1)-大量虐殺の序章:焼夷弾・ルメイ・ドレスデン

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1945(昭和20)年3月10日、深夜の東京・下町はアメリカ軍の大規模爆撃の標的となり、瞬く間に火の海になりました。

約2時間足らずで10万人の市民を焼き殺した「東京大空襲」は、どのような兵器を使い、何の目的で行われたのでしょうか。

 

東京空襲

アメリカ軍を中心とする連合国による東京への爆撃は、1944(昭和19)年11月から行われました。11月24日、マリアナ諸島を出発した80機のB-29が武蔵野の中島飛行機製作工場を目標に爆撃したのが始まりです。

その後爆撃は激しさを増し、同27日、12月3日と、猛烈な爆撃が同じ目標に対して行われました。12月に入ると目標は都市部も含まれるようになります。

連日B-29が来襲するようになり、12月は計15回の空襲で延べ136機のB-29が参加。751人の死傷者が出ました。

B-29についての詳細はこちらをご覧ください ➡ 日本を襲う銀色の怪鳥-B-29とはどのような飛行機か

 

年が明け、1945年1月は、元旦の深夜からB-29 やってきて、1月中に200機以上が来襲。人的被害は12月より倍増しました。

1月27日の午後、約70機の編隊が有楽町・銀座を集中爆撃しました。

有楽町駅は大型の直撃弾を受け、階段、ホームまで死体で埋め尽くされました。有楽町駅付近の死者は100人以上、死体はトラック2台で日比谷公園に設けられた仮置き場へ運ばれました。

2月には、B-29に空母から発信した艦載機も加わり、襲来した航空機は月の合計で751機に達します。死傷者は1,947人にのぼりました。

1945年1月27日 空襲を受ける銀座数寄屋橋
1945年1月27日 銀座数寄屋橋の様子。

 

焼夷弾とはどのようなものか

「木と紙と土」でできた日本の木造家屋群へ効果的にダメージを与えるため、アメリカ軍が積極的に採用したのが「焼夷弾」(しょういだん)と呼ばれる爆弾の一種でした。

通常、爆弾は中に火薬が詰められ、衝撃が加えられると爆発を起こし、爆風と熱、爆弾の破片によって周囲の建造物を破壊したり、人を殺傷したりします。

木造建築物が多くを占める戦時中の日本の都市へダメージを与えるには、爆風によって破壊する爆弾よりも、高い燃焼効果でより効果的に街全体を焼き尽くす焼夷弾がよく用いられました。

焼夷弾(ここでは後述のM69を例にとります)は地面に落下するとさく裂します。それと同時に大量のナパームをまき散らし、四方に火災を発生させます。ナパームとは、グリセリンなどをガソリンと混合し、ドロドロの油脂にしたものです。

火炎は高さ3メートルに及び、一面が火の渦となります。日本では空襲による火災は砂や水をかけたり、火を叩いたりすることで消火できると教えられ、実際に防空演習でもそのような訓練が盛んにされていました。

しかし、実際には大量に投下されれば火の勢いはものすごく、手の付けようがありませんでした。

使用された焼夷弾のうち、代表的なものは「M69」と呼ばれるものです。

M69は集束弾(しゅうそくだん)と呼ばれ、直径約8センチ、長さ約50センチ、重さ2.7キロの金属の筒でできた小型焼夷筒が38本金属バンドで結び付けられていて、落下する途中で分解してバラバラになり、地面に突き刺さります。

その一本一本が、3メートルの火炎を噴き上げていきます。

M69焼夷弾
長岡市に降り注いだM69焼夷弾の子弾(こだん)。これが38発束になったものが投下され、空中でこの「子弾」に分かれ降り注ぐ。(新潟県立歴史博物館)

 

アメリカ軍の戦術の転換

1945年2月までの空襲は、約1万メートルの高度から爆弾や焼夷弾を落下させるものでした。

目標は概ね軍需工場や軍事関連施設で、商業地や住宅地は例外的でした。このように非常に高い高度から、特定の目標を狙い撃ちする爆撃を「高高度精密爆撃」(こうこうどせいみつばくげき)と呼びます。

爆弾を投下するB-29(日本占領下のビルマ(ミャンマー)首都ラングーンで)
爆弾を投下するB-29(日本占領下のビルマ(ミャンマー)首都ラングーンで)

 

特にアメリカ軍は航空機工場、特にエンジン工場を爆撃することに力を入れました。

航空機、なかでもエンジンが作れなくなれば、日本の防空能力は格段に落ちるからです。

東京だと武蔵野の中島飛行機武蔵工場、それ以外にも群馬県の中島飛行機太田工場、名古屋市の三菱重工名古屋航空機製作所、名古屋発動機製作所などが空襲の目標となりました。

しかし、西から東に流れる日本上空の強いジェット気流の影響と、曇りがちな日本の天気により、爆弾は大きく目標をそれることが多く、アメリカ軍は空爆の成果に満足していませんでした。

アメリカ陸軍航空隊司令官のアーノルド大将は、より大規模に日本の都市を空襲し、生産力を壊滅させることを希望していました。彼はこのような言葉をメモに残しています。

手加減することはない。戦争とはもとより破壊的で、非人間的かつ無慈悲なものである

しかし、アメリカは政府のみならず軍部内でも、一般市民を対象にした空襲を大々的に行うことに大きな抵抗がありました。

そのため、彼らには市民の居住地を攻撃する理由が必要でした。それは、日本では都市の家庭内で軍需品の部品を生産しており、各家庭が軍需品工場の役割も果たしているので、都市を焼き払うことは軍需品工場を叩くことである、というものです。

新たに日本への爆撃部隊の司令官として、ヨーロッパ戦線でドイツ爆撃に活躍したカーチス・ルメイ少将が抜擢されました。

ルメイは、高高度爆撃の成果があまり上がらないことを見ると、戦術の大幅転換を行いました。

  • 高高度爆撃から低空(1500~1800メートル)からの爆撃へ
  • 爆弾はすべて焼夷弾とし、目いっぱい積む。そのために、以下の手段を講じ機体を軽くする
    • 防御用機銃を全て取り外す
    • 燃料は最小限にする
  • 敵(日本)が防火体制を取りにくい夜間爆撃とする

日本の都市を最も効率的に焼き払うことにのみ集中し、他の要素は一切排除する戦術でした。これには搭乗員からも大いに懸念が出ました。

  • B-29の飛行高度が低く日本軍の高射砲や迎撃機の攻撃をモロに受ける可能性が高い
  • 防御用機銃がなく、迎撃機の攻撃から守ることができない
  • 燃料が最小限なので、燃料タンクを損傷すると帰還できなくなる可能性が高い

しかし、ルメイは直接搭乗員への説明を行うなどし、この作戦の意義を徹底させ、実行にこぎつけました。この低高度からの夜間焼夷弾爆撃が、初めて実行されたのが3月10日の東京でした。

カーチス・ルメイ少将(1951年)
カーチス・ルメイ少将(写真は1951年)

 

ヨーロッパ戦線の無差別大規模爆撃―ドレスデン空襲

東京大空襲に先立つこと1ヶ月、1945年2月13日~14日にかけて、ドイツに対してはイギリス軍が中心となり、アメリカ軍と共同でドイツ東部の都市ドレスデンへ大空襲を行いました。

2日間で三回の大規模な空襲を行うもので、それぞれ244機、約300機、314機の爆撃機が出撃。東京大空襲の二倍以上となる約3800トンの爆弾・焼夷弾を落としました。

ドレスデン市街地は一週間近くも燃え続け、75%が廃墟となりました。人口60万人のうち、3万5千人以上が亡くなりました。

空襲後のドレスデン市街
空襲後のドレスデン市街

 

ドイツ降伏は時間の問題とされていた時期であり、ドイツへ打撃を与えるという意味では、このような大規模で無差別な爆撃の必要性は低いと考えられます。

イギリスとしては、ソ連に対して終戦後のドイツへの影響力を保つために、自分たちのドイツ降伏への寄与度を上げたかったための爆撃と言われています。

 

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💡 書評はこちら ➡   【書評】図説 東京大空襲(早乙女勝元)

 

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本項は以下を基に構成しました。 


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photo:Wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:M69焼夷弾

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