【概要】旧軍人・軍属、民間人被災者の戦後補償-放置される民間人

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太平洋戦争後、日本の軍人や民間人に対して、政府としてはどのような対応をしてきたのでしょうか。

ここでは、旧軍人・軍属および民間人に対しての恩給や補償(財産や健康上の損失をお金でつぐなうこと)の概要についてまとめます。

※出典:デジタル大辞泉

旧軍人・軍属の恩給・補償

1951年に連合国と締結した「サンフランシスコ平和条約」で、日本は連合国に対する補償請求権を放棄しました。

1952年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」という法律を制定。翌年、GHQ統治下では停止されていた「軍人恩給(おんきゅう)」(旧軍人と旧軍属ら及び遺族に支給される恩給)を復活。

これらによる支給総額は2016年時点で累計60兆円に及びます。

ニューギニア島にて、オーストラリアの第6師団ホレス・ロバートソン少将に軍刀を引き渡す日本の第18軍安達二十三司令官
ニューギニア島にて、オーストラリア軍司令官に軍刀を引き渡す日本軍司令官

 

日本政府の姿勢は一貫して国と雇用関係にあった人だけを補償の対象にするというものでした。

軍隊に所属する人のうち、戦闘に従事する人を軍人、それ以外を軍属(ぐんぞく)と呼びます。両者とも軍と雇用関係にあったことから、戦後補償がなされてきました。

12年(兵・士官)ないし13年(准士官)以上勤務した軍人には、「恩給」と呼ばれる戦前定められた年金制度によって、本人とその遺族に対する給付が行われています。

給付額は当時の階級別に分けられており、最低級の兵は約146万円、最高級の大将で約833万円(具体的な金額は勤続年数によって変わる)、それぞれ年間に支払われます。

加えて、勤務中の傷病に対してや、勤務地別の様々な追加の補償があります。本人が死亡した後は、遺族に対して支払いが行われます。

 💡  制度の概要 ➡  総務省「恩給制度の概要

 

恩給法の年限に満たない軍人や、軍属、準軍属(軍属の身分はなかったが、国家総動員法等で軍に動員された人々)のうち、障害を負ったり、亡くなった人に対しては、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、本人または遺族に特別の障害年金や遺族年金等が支給されています。

障害年金の額は、障害の重さやどのように発生したかによって変わりますが、年額約74万円~約973万円となっています。

 💡  制度の概要 ➡  厚生労働省「戦傷病者及び戦没者遺族への援護

 

民間人への援護の特例

では、戦争当時直接軍と雇用関係になかった人々への補償はどうなっているのでしょうか。

原爆被爆者、シベリア抑留者、中国残留孤児等については、民間人でも援護(えんご=困っている人を助けること)の対象になっています。

※出典…weblio辞典

 

原爆被爆者

放射線の影響を受けたと認められ、「被爆者健康手帳」が交付された者に対して、医療保険の自己負担分を国費で補てんするなどの援護が実施されています。

同手帳所持者で、原爆症の認定を受けた者には医療特別手当(月額約13万7千円)が、一定の疾病にかかっている者には健康管理手当(月額約3万4千円)が、その他一定の要件を満たした者には各種手当が支給されています。

 

シベリア抑留者

軍人・軍属としての年金を受給する権利を持たない者のうち、戦後、旧ソ連またはモンゴル地域において強制抑留された者またはその遺族には、10万円(遺族については死亡者一名につき10万円)の慰労金と慰労品(銀杯)が支給されました。

 

中国残留邦人

終戦前後の混乱で中国大陸(特に満州)に取り残された日本人に対し、一時帰国・永住帰国・定着・自立援護などの援護がされていました。さらに、2008年より、老齢基礎年金(国民年金のうち、65歳になったら支給されるもの)の満額支給と、それで生活ができない場合は支援給付として月約8万円の支給が始まりました。

 

空襲被災者へは一切補償なし

空襲の被害に遭った民間人に対しては、日本政府からの補償は一切ありませんでした。

一方で、以下に述べるように、第二次世界大戦を戦ったヨーロッパ諸国では、軍人・民間人の垣根のない補償がなされていました。

同じ戦争で被害を受けたのに、旧軍人・軍属には恩給という形で多額の支給がなされる一方で、民間人には補償が全くない状況に、戦争被災者は訴訟という形で国に補償を求める動きを起こしました。

 💡 本土空襲の被害概要についてはこちら ➡ 【概要】本土空襲

 

戦後補償裁判の概要

1945年 敗戦・シベリア抑留始まる
     軍人恩給の停止

1952年 日本が独立を回復(サンフランシスコ講和条約発効)
    「戦傷病者戦没者遺族等援護法」施行

1953年 軍人恩給が復活

1956年 シベリア抑留が終わる(日ソ共同宣言調印による)

1976年 名古屋大空襲訴訟(1980年敗訴・上告)

1987年 名古屋空襲訴訟、上告棄却
    「戦争で受けた損害を国民は等しく"受忍"(じゅにん)」

2007年 東京大空襲訴訟(2009年敗訴・上告)
      シベリア抑留補償訴訟

2010年 シベリア抑留に関する「戦後強制抑留者特別措置法」制定

2012年 沖縄戦国賠訴訟

2013年 東京大空襲訴訟、最高裁で原告敗訴確定
     2014年 大阪大空襲訴訟、最高裁で原告敗訴確定

2013年 東京大空襲訴訟、上告棄却
     地裁判決「戦争被害者の救済は立法を通じて解決すべきだ」
     シベリア抑留補償訴訟、最高裁で原告敗訴確定

2014年 大阪空襲訴訟、上告棄却

2016年 沖縄戦国賠訴訟、那覇地裁で敗訴。現在控訴中

出典:軍人は補償・民間人は我慢 戦後71年、今も残る「差別」

受忍論

一連の民間人戦争被災者への補償請求に対して、裁判所が主に却下の理由として用いてきたのが、「受忍論」(じゅにんろん)と呼ばれる論理です。それが最初に用いられたのは、1960(昭和35)年に起きた「在外財産補償請求訴訟」の判決においてでした。この訴訟は、カナダにいた日本人が、戦争を機にカナダ政府に財産を没収されたことについて日本政府へ補償請求を行ったものです。1968(昭和43)年に最高裁は上告を棄却し、その中で以下のように述べました。

戦争中から戦後占領時代にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあつては、国民のすべてが、多かれ少なかれ、その生命・身体・財産の犠牲を堪え忍ぶべく余儀なくされていたのであつて、これらの犠牲は、いずれも、戦争犠牲または戦争損害として、国民のひとしく受忍しなければならなかつたところであり、右の在外資産の賠償への充当による損害のごときも、一種の戦争損害として、これに対する補償は、憲法の全く予想しないところというべきである。
太字は筆者。判決文全文はこちら(PDF)

これが「戦争中は国民全員が何らかの被害を被ったのだから、その被害については我慢しなければならない」「そのような補償は憲法は予想していないから、国は補償する義務はない」とする「受忍論」の始まりです。

この在外財産賠償請求訴訟では、その範囲は財産に対してのみでしたが、1980(昭和45)年に名古屋高裁で敗訴し、1987(昭和52)年に最高裁が上告を棄却した「名古屋大空襲訴訟」では、これは人命にも広げられ、空襲によって命を落としたり怪我をした人も皆我慢をしなければならない、とされました。

空襲で焼け野原になった大阪。日本中のほとんどの都市が焦土と化した。

 

以降、東京大空襲訴訟、大阪大空襲訴訟も同様の考え方が適用され、空襲被害者の司法による救済はほぼ断たれました。

一方で、2009年の東京大空襲訴訟の地裁判決では、「一般戦争被害者を含めた戦争被害者に対する救済という問題は、様々な政治的配慮に基づき、立法を通じて解決すべき問題」とされ、国会での解決を促しました。

このような流れを受け、2010年8月に沖縄戦民間被害者を含めての「全国空襲被害者等連絡協議会」(全国空襲連)が発足し、被害者が全国レベルでネットワークされました。

さらに、翌年2011年8月には、超党派の「空襲被害者等援護法(仮称)を実現する議員連盟」(空襲議連)が結成されました。

本年2017年4月27日の報道では、空襲議連として「空襲による被害で障害を負った方に一律50万円の一時金を支給」という内容で法案を調整しているとされました。

戦後72年が経ち、ようやく空襲被害者救済の形が見えつつあります。

※「空襲被害者救済、一時金法案の素案を了承 超党派議連」(朝日新聞デジタル 2017年4月27日14時04分)

民間人戦争被災者救済の根拠

民間人戦争被災者を救済する根拠の一つとしては、日中戦争に突入した1937(昭和12)年、都市への空襲に備えるために定められた「防空法」という法律の存在があります。

1941年の同法の改正で、内務大臣が都市からの退去を禁止できること、空襲時の消火活動を義務付けることなどが加わりました。これにより、空襲の際に逃げることは法律で禁じられました。

さらに、その後の法令によって国民の行動を制限することにつながっていきました。

真珠湾奇襲攻撃の前日に出された通牒では、お年寄りや幼児、病人でも原則として退去させないことが明記されました。都市から人がいなくなれば、消火活動が滞るうえ、国民の戦争への協力が消極的になることを国が恐れたためと考えられます。

このような法律の下、国民は防空訓練を盛んに行いました。焼夷弾は「バケツリレー」によって大量の水をかけたり、水に濡らした布団や敷物をかぶせることで消火できると教えられました。

しかし、実際の空襲は消し止められるような規模ではなく、最初の都市への大規模焼夷弾爆撃となった東京大空襲では、消火しようとして逃げ遅れた多くの人々が炎に飲み込まれ亡くなりました。

このように、国家の意思として始めた戦争そのもののみならず、政策によって被害が拡大したために、国が被災者の補償をするのは当然という意見も根強くあります。

 

諸外国の対応

第二次世界大戦の被害を各国はどのように補償してきたのでしょうか。以下に、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの事例を紹介します。

 

イギリス

  • 「人身傷害(緊急措置)法」(1939年制定)が第二次世界大戦中の一般市民の戦争被害補償の根拠法規になっている。
  • 「有給就業者」「非有給就業者」「市民防衛志願兵」が被った戦争「傷病」に関して各種の給付が行われる。
  • 「空襲などにより人または財産に与えられた衝撃に起因する身体上の傷病」も、傷害の程度が重く、かつ長期に及ぶ場合に補償がなされる。
  • 障がい者の医療費、職業訓練、年金等のほか、志望者の配偶者・遺児等にも年金や手当が給付される。
  • 物的損害の補償もなされる。

 

フランス

  • 第一次世界大戦の戦争行為の結果、「不具を生じせしめる傷病」を受けた「全てのフランス人」は、年齢・性別にかかわらず、終身または臨時の年金の受給権を有する旨の規定が、第二次世界大戦中の犠牲者にも拡大されることになった。
  • 障害年金、寡婦年金、遺児年金、両親年金が支給される。他に様々な事情に応じた加算がある。
  • 遺児は「戦災孤児」として、人間としての成長のための国の特別な保護と生計費、奨学制度に上積みした高等教育までの教育・職業訓練手当等の金銭的援助を受けた。
  • 物的損害の補償もなされる。

 

ドイツ

  • 軍務又は準軍務に関連して損傷を受けた者が、損傷により健康上、経済上の影響を受けた場合には、本人又はその遺族に対して、援護法が適用される。
  • 損傷の範囲が「戦争の直接的影響」等による損傷も援護の対象とされ、一般市民も適用を受ける。これらの戦争の直接的影響等と、損傷との間の因果関係の照明は、「蓋然性」で足りるとされている。
  • 給付の内容には、医療(リハビリを含む)、障害年金、遺族年金、戦争被害者扶助などがある。遺族が高齢になった場合には、生活のための加給がなされる。
  • 物的損害の補償もなされる。「負担調整法」では、負担調整のための資金を、戦争による財産上の損害を免れた者に対する「負担調整賦課金」と連邦政府、州政府の補助金、貸付金の返済で賄われる。

※蓋然性…一つの事柄が成り立っているか否か、はっきりしないときに、その事柄が実際に成り立っている可能性についての見積りの度合い。個人によって異なりうる主観的なもの。(出典:日本大百科全書(ニッポニカ)

 

イタリア・オーストリア

  • 軍人・軍属と民間人を区別することなく、補償を行っている。

 

以上の各国の補償に共通している点を、全国空襲被害者連絡協議会は、「空襲被害者等援護法Q&A」で以下のように指摘しています。

戦争被害補償における欧州諸国の制度の特徴は、「国民間の平等」と、「内外国人間の平等」 です。その背景にあるものは、負担の平等とともに、人道主義があり、国際人道法における傷病者保護や捕虜の保護と同一の思想が背景にあると指摘されています。
つまり、国家の前に、人間一人一人を個人として大切にする思想に基づく補償が制度化されています。

 

以上、戦後の旧軍人や民間人に対する恩給・補償の状況を、空襲被災者を中心に概観しました。

本項では扱えませんでしたが、上記以外にも沖縄戦国賠訴訟や、韓国人BC級戦犯補償問題など、現在でも裁判や立法に向けて努力がされている様々な問題があります。

戦後72年が経ちますが、国にその責任を認めてもらいたいと、苦心を続ける戦争被災者の方々が大勢います。彼らにとっての戦争は、まだ終わっていません。


本項は

photo: wikimedia, public domain
トップ画像:東京大空襲によって焦土と化した東京。両国駅付近上空から南(東京湾方面)に向かい撮影(米軍撮影)

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