【概要】大日本帝国憲法下の国家機構

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戦前・戦時中、日本の憲法は現在と異なる「大日本帝国憲法」でした。そのもとでは、国家はどのような仕組みだったのでしょうか。

大日本帝国憲法の発布

1889(明治22)年2月11日、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で始まる大日本帝国憲法が発布されました。大日本帝国憲法は、天皇が定めて国民に与えるものでした。このような憲法を欽定(きんてい)憲法と呼びます。

 💡 大日本帝国憲法の原文はこちら ➡ 大日本帝国憲法全文(原文)

 

この憲法の特徴は、天皇と行政府に極めて強い権限が与えられたことです。

大日本帝国憲法下の国家機構

※常侍輔弼…「常侍」は常に天皇のそばにいること。「輔弼」は補佐・助言すること。天皇のそばに常に居り、国務大臣(各省等の大臣)が補佐できない場合に天皇に助言すること。

 

天皇大権

神聖不可侵とされた天皇は統治権のすべてを握っていました。

  • 文官・武官の任免(にんめん/職に就くことを命じること、また職を解くこと)
  • 陸海軍の統帥(とうすい/作戦や兵の展開に関する一切)
  • 宣戦、講和、条約の締結、など

このように天皇は議会の関与できない大きな権限を持っていました。これを天皇大権と呼びます。特に陸海軍の統帥権は、内閣からも独立して天皇に属していました。「統帥権の独立」です。

制限の多かった帝国議会

大日本帝国憲法下では、主権は天皇にあり、その下で立法・行政・司法の三権は分立し、それぞれが天皇を補佐することとされました。

ただし議会は、予算案は政府の同意なしに削減できないと定められるなど、様々な制限を設けられていたほか、各国務大臣は議会にではなく天皇にのみ責任を負うものとされ、相対的に政府(行政)の権限が強力になっていました。

帝国議会は貴族院と衆議院の二院で構成されていました。貴族院は皇族、華族等で構成され、国民(臣民)が直接関与することはできませんでした。

衆議院は一般国民から選出された議員によって構成され、政党も影響力を発揮しました。しかし、選挙権は男性に限られ、女性は国政に関与することはできませんでした

 

「臣民」として天皇に隷属した日本国民

国民は大日本帝国憲法では「天皇の臣下である民」ということから「臣民」(しんみん)と呼ばれ、天皇に支配される対象でした。臣民は法律の範囲内での所有権、信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由を認められていました。

 

この項は詳説日本史B(山川出版社)を元に構成しました。

photo: Wikimedia, public domain

アイキャッチ画像:帝国議会貴族院

 

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