戦前の教育(1)徳育重視の教育政策への道-明治維新から教育勅語まで(1868‐1890)

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教育は人をつくるがゆえに、教育政策は国家建設の根幹をなすものです。明治維新から太平洋戦争にいたるまで、国の中枢を担った人々は、教育に並々ならぬ心血を注いできました。それでは、その時代の教育とはどのようなものだったのでしょうか。軍事国家との関係性はどのように導かれたのでしょうか。第一回目の今回は、明治維新後から、教育勅語発布までを駆け足で見ていきます。

本項は江戸時代の終わりから太平洋戦争へ至る歴史の中で、国民の意識形成に教育がどのように作用し、また国家目標達成のために教育がどのように利用されたかを考えることを目的に、「日本教育小史―近・現代 (岩波新書)」より、必要部分を抜粋しました。明治~昭和初期の教育全てを網羅するものではないことにご留意ください。

 

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明治維新直後

1868(慶応4)年、薩摩藩・長州藩を中心とする革命勢力が、265年続いた徳川幕府を打倒し、新たな政府を樹立しました(明治維新)。この直後から、教育によって昔からの習慣を捨て、知識を世界に求めようという動きが起きました。まず、1868年、明治天皇が神々に対して誓約する形式を取った(国民との約束ではない)「五箇条の御誓文」では、以下のように書かれています。

旧来の陋習を破り天地の行動に基くべし

知識を世界に求め大に皇基を振起すべし

(「五箇条の御誓文」より抜粋)

ここで教育の観点から注目すべきは、「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り」と「知識を世界に求め」です。「陋習」はいやしい習慣、悪い習慣のこと。古い、良くない習慣を捨てること、知識を世界に求めることが掲げられました。

明治天皇
明治天皇

 

五箇条の御誓文はその後それほど重視されたわけではありませんでしたが、この方針に沿った教育改革の提案が木戸孝允(きどたかよし)や伊藤博文から続きました。明治政府は、若い洋学者たちに諸外国の事例を参考に学校制度を検討させます。その間、政府の指示を待つことなく、地方・民間から独自の学校開設の動きが起こってきました。京都では1869年から1870年にかけ、市内の64の町組に小学校が設立され、名古屋県(当時)では住民も協力し、京都より大規模な学校建設を行いました。また、福沢諭吉が「慶應義塾」を開塾したのも1869年です。

新政府は当初大学に最高学府と中央教育行政機関としての機能を持たせていましたが、1871(明治4)年、中央行政機関として文部省を創設。目的の一つとして「全国の人民を教育して其の道を得せしむるの責に任ず」を掲げ、単に教育の物的条件整備を行うだけではなくて、国策に沿って日本の教育の進路を定める責任を負っていました。

文部省は学校制度を創設するにあたり、福沢諭吉の「学問のすゝめ」に強く影響されました。学校制度を定めた法令「学制」の前文として「学事奨励に関する被仰出書」(がくじしょうれいにかんするおおせいだされしょ)がありますが、「学問のすゝめ」の影響を受けている点は以下の通りです。

  • 身分、性別に関係なく全ての国民が最低限の学問を修めるべきという「国民皆学」。
  • 学ぶ目的が国(藩)のためというのは誤りであり、(1)個人の立身、(2)生計を立てること(治産)、(3)生業(なりわい)を盛んにすること(昌業=しょうぎょう)、のためであるとする。
  • それまでの言葉の暗記や実用性・現実性のない話を理解することに終始していた学問を止め、人間の営みに必要な知識・技術を学ぶ「実学」の重要性を強調。
  • 教育にかかる経費は学ぶ者自らが負担するべきという「受益者負担原則」。

 

幻の学校設立計画

学制では学区制を定めました。全国を8つの大学区に分け、各大学区に32の中学区、各中学区に210の小学区とし、全国で合計大学8、中学256、小学校5万3760校の設置が予定されましたが、財政的に全ては実現できませんでした。大学は1877(明治10)年に東京大学(86年に帝国大学と改称)が設立されましたが、大学1校時代が20年も続きました。

全国的な教育行政は文部省の指導下に置かれました。ただ、全国の学校教育の内容や方法まで画一化しようというものではありませんでした。教科書は国による統制はなく、民間による教科書の編集が期待されていました。小学校の建築もそれぞれの学校に任されており、多くは寺子屋の転用や寺院でしたが、長野県をはじめとして個性的な小学校も現れました。小学校は下級学校と上級学校からなり、それぞれ4年制で、合計8年でした。

学制公布当初、初等教育は有料でした。国が財政を圧倒的に投入したのは高等教育です。多数の留学生を海外へ派遣すると同時に、多くのお雇い外国人教師を、破格の高給を払って招へいしました。その給料は1868-72年の間では全国家予算の約4%におよび、科学技術振興を担う工部省では、予算総額の50%を超えていました。科学技術を中心としながら、音楽や美術にも外国人を招き、西洋文化の摂取に努めました。

 

政策の転換:徳育の重視

教学聖旨

天皇は1876年から85年にかけて、日本全国を巡りました(巡幸)。1878年の北陸・東海道巡幸では、授業も参観しましたが、授業ではいたずらに空論が説かれていると懸念を示されました。そこで、天皇側近の儒学者元田永孚(もとだながざね)が天皇の意を汲み、文章を作成することとなりました。元田永孚は天皇による政治(親政)を推し進める考えの人物です。

元田永孚
元田永孚

 

元田が起草し、天皇が1879(明治12)年に文部大臣(当時は文部卿といった)に下した形を取った「教学聖旨」(きょうがくせいし)はおおよそ以下のような内容です。

  • 学制には「陋習を破り知識を世界に広むる」点で意義があった。
  • 一方で、その教育が知識才芸の「末」に走って、人間形成の「本」であるべき徳育をないがしろにしたと批判。
  • その徳の中心には孔子の教えに由来する仁義忠孝をすえるべきだと主張。
  • 具体的には、仁義忠孝を外の考えが入る前に子どもの「脳髄に感覚せしめて培養する」必要がある。
  • そのため忠臣・義士・孝子・節婦の画像・写真を掲げてその業績を子どもに説くという方法を取るべき。

 💡 教学聖旨原文はこちら ➡ 教学聖旨(原文)

しかし、当時小学校はまだ普及の半ばであり、知育が批判されるほど普及はしていませんでした。教学聖旨の裏の狙いとしては、幼少の段階から批判精神を摘み取り、当時政府に対して攻撃を強めていた自由民権運動を抑えてしまおうという狙いがあったと考えられます。

教学聖旨と同じ年の1879年、学制に代わる法令として「教育令」が公布されました。これは、学制による学校教育が、人々の大きな経済的負担となっていたことに加え、学校教育が生活に役立たないという考えが一般に強かったためです。学制への反対意見の強さは、学制公布後数年間には学校焼き打ち事件が起こったほどでした。そのため、小学校8年のうち16か月のみを義務とし、町村の小学校経営および保護者の負担軽減を図りました。地方の裁量を増やしたため、この教育令は、後に「自由教育令」とも呼ばれます。しかし、この教育令によって、就学率の低下、校舎建設中断など、教育の停滞を即座に招いてしまいました。そのため、わずか1年後に改正教育令が公布され、改めて政府の教育行政への強い干渉を行う内容となったのです。

 

軍隊にとっての教育

軍部にとっても教育は大きな関心事項でした。陸軍少将山田顕義(あきよし)は、「強い軍隊の基礎は兵士が銃を取り敵前に進む訓練ではなく、人民一般の知識が敵兵よりも超越することが最重要である」という趣旨のことを述べています。しかし、軍人にとって最も重要とされていたのは「忠節」つまり主君(天皇)に対する忠誠でした。1882(明治15)年に発布された「軍人勅諭」(ぐんじんちょくゆ)では、「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の五つの徳目のうち、「忠節」が最も重視され、いかに知識や技能に優れていても、忠節の心がなければでくのぼうに等しいとされました。軍部にとっては、教育、特に初等教育は忠節の心を持った国民を育成するために欠かせない装置であり、またそうであるために機能しなければならなかったのです。

💡 軍人勅諭の原文はこちら ➡ 軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)

 

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初代文部大臣・森有礼の教育改革

1885(明治18)年、内閣制度が発足し、初代文部大臣に元薩摩藩士で外交官(駐英公使など)の森有礼(もりありのり)が就任しました。

森有礼
森有礼

 

森は1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者に暗殺されてしまいますが、それまでの4年間で様々な教育上の改革を行いました。以下に森改革のうち、教育の国家統制に関係する代表的なものを紹介します。

大学

  • 東京大学を帝国大学と改め、その目的を「国家に欠くことのできない学問や技術を教授し、その奥義を究める」と、国家目的達成のために存在することを明確にした。
  • 帝国大学の総長は法科大学長を兼ねることとされていた。これは大学が高級官僚の養成に最重点を置いていたことを示している。
  • 文部大臣の選んだ評議員が大学の運営にあたる。国策に沿った政府直轄の大学という色彩が強められた。

 

小学校

  • 病気または極度の貧困の者などやむを得ない事情のある者以外は、原則就学を義務とした。
  • 文部大臣の検定を経た教科書の使用を義務付けた。
  • 学問研究の成果に即して教えるのではなく、学問の成果に反してでも富国強兵のための教育を行わせる。「学問と教育とは別」であるという姿勢を明確にした。

 

教員養成の重視

  • 公立学校の教師は師範学校の卒業生でなければならない。
  • 師範学校は高等と尋常の二種とし、高等は東京に一校設置し、卒業生は尋常師範学校の教員または校長となり、尋常は各府県に一校ずつ設置し、卒業生は各学校の教員または校長となる。
  • 師範学校生徒は「自分の利益を考えるのは2、3割で、7、8割は国家にとって必要な目的を達成する道具」であるとの自覚が大事とされた。
  • 師範学校生徒には、衣食の他、日用品、一週間ごとの手当、文房具、靴下が支給されるなど、かなり優遇されていた。
  • 一方で、師範学校生徒は全員が寄宿舎生活を義務付けられ、監視のもと規則正しい生活が求められた。
  • 師範学校の生活や各種訓練には軍隊方式が取り入れられた。高等師範学校長に陸軍軍務局長が、同行体育教官には陸軍将校が現役のまま任命された。教員が軍隊方式で養成されれば、当然各学校でも軍隊式の教育が採られることとなる。

 

 ➡ 次は「教育勅語への道」



 

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