前回は明治維新から教育勅語発布までの教育政策を概観しました。本項では、教育勅語発布後から、太平洋戦争終了までの間の教育政策の変遷を追います。
1930年代から特に強力に推進された、天皇崇拝を軸にした教育・思想の支配はついに終わりを迎えることになります。
💡 前回のページはこちら ➡ 戦前の教育(1)徳育重視の教育政策への道-明治維新から教育勅語まで(1868~1890)
本項は前回に引き続き、太平洋戦争へ至る歴史の中で、国民の意識形成に教育がどのように作用し、また国家目標達成のために教育がどのように利用されたかを考えることを目的に、「日本教育小史―近・現代 (岩波新書)」より、必要部分を抜粋しました。この時期の教育全てを網羅するものではないことにご留意ください。
目次
教育勅語発布から日露戦争まで
支援されなかった私立学校
中央集権政府の下、官尊民卑の風は強く、帝国大学のみを大学と位置付けていたことに加え、政府は私立の高等教育機関を財政面からも支援しませんでした。
1899(明治32)年の「私立学校令」では、地方長官(知事)が私立学校に対して厳しく監督するよう定められ、私立学校の個性的な発展は妨げられていました。
私立主導の女子教育
1890(明治23)年頃、小学校就学率は男女合計で59%でしたが、女子は41%に低迷していました。
「学制」では女子教育は小学教育は男子と同等とされましたが、それ以上の学校は女子師範学校(教員養成学校)だけであり、女子に向けられた公立の中等・高等教育はありませんでした。
女子教育は主に私立学校によって進められ、中でもキリスト教徒によって1882(明治15)年から1892(明治25)年にかけて東洋英和や普連土(ふれんど)など22の女学校が設立されました。
文部省も女子教育が不要と考えていたわけではありませんが、富国強兵という目的において必要性であるという考えでした。
1899年には「高等女学校令」が出され、女子にも中等教育が整備されるきざしを見せました。
一方で、同じ年齢では男子は中学校であるのに対し、女子は高等女学校と名付けられたのは、女子にとってはそれが高等な教育内容とされていたためです。
女子教育における眼目は「良妻賢母」を生み出すことにありました。高等女学校では、男子中学校で重要視されていた英・数・国・漢・理の授業は比較的少なく、その代わり裁縫・家事が置かれていました。
義務教育の徹底
義務教育の推進は産業革命を進め、工業と軍事を発展させていくために必要なことと考えられていました。
1900(明治33)年の改正小学校令では、それまで複数あった義務教育年限を4年で統一、原則として授業料は徴収せず、貧困家庭には就学費の補助を出すなど、教育を受ける機会の均等が進められました。
そのような取り組みが功を奏し、1900年頃には小学校就学率は90%を超え、義務教育はほぼ完成しました。
岐路となる教科書の国定化
前回見たように、森有礼文部大臣以降、教科書は検定制が採られていました。道府県ごとに審査員を配置し、道府県単位で検定に合格した教科書を採用する仕組みです。
しかし、出版社と採択委員との間でわいろのやり取り(贈収賄、ぞうしゅうわい)がたびたび報じられ、社会的に大問題となりました。
このことはやがて検定制自体の是非につながっていくことになります。また、検定だけでは教科書に教育勅語の趣旨が完全に反映されないと考える人たちがいました。
帝国議会議員にもこのような考えの人たちはおり、少なくとも修身(道徳)教科書は国費をもって編集・刊行すべきであるとの建議(政府に対して意見を述べること)を繰り返していました。
そのような折、1902(明治35)年に大規模な教科書をめぐる贈収賄事件が発覚します(教科書疑獄事件)。これをきっかけに、翌年から国定制度に改められることとなりました。
政府にとって、教育勅語の精神に合致する教科書を政府の思惑通りに発行できる体制が整いました。
国定化は、国体と関係している修身・国語・地理・歴史の四教科を優先して行われ、相互の関連性が持たされました。算術・理科などの国定化は後回しにされます。日露戦争開戦の年である1904年より、国定教科書は使われ始めました。
日露戦争後の社会不安への対応
1904(明治37)年~1905(明治38)年にかけての日露戦争に、辛くも日本は勝利しましたが、講和条約の内容に多くの民衆が不満を抱き、日比谷焼打事件が起きるなど、各所で怒りが爆発しました。
しかし、さらに政府にとって厄介だったのは、社会主義思想や文学での自然主義などが広まっていったことでした。
これらの公共の秩序を乱すとされた思想の広まりを恐れた政府は、1906(明治39)年文部省訓令において、学生・生徒に対し、社会生活における規律を保つよう、呼びかけを行いました。
訓令では「軽薄の風潮」「詭激な言論」「厭世の思想」「陋劣の情態」などを憂慮すべき態度として挙げましたが、もっとも政府が警戒していたのは社会主義であり、未然防止のため弾圧の必要性を説いています。社会主義について、特に以下のように記されています。
極端な社会主義を鼓吹する者が各所に出没し、様々な手段により教員、生徒を誘惑しようとする者がいると聞く。もしそれがそのようで、建国の大本を軽視し、社会の秩序を乱すような危険な思想が教育界に伝播し、日本の教育の根底を動かすに至ることがあれば、国家将来のため最も恐れるべきことである。特に教育に当たるものは留意警戒し、激しい偏った意見を退け、広まる毒を未然に防ぐ用意をしておかなければならない。
(現代語訳、太字は管理人による)
💡 訓令全文(原文)はこちら ➡ 【文部省訓令】学生生徒ノ風紀振粛ニ関スル件(原文)
この訓令を実行に移すため、教育勅語に引き続き、天皇の詔勅が2年後に発せられました(戊辰詔書)。
詔書は民心の動揺をしずめ、皇室と国民が心を一つにして前に進むことを呼びかけています。この詔書は、国民教化に関し教育勅語に次いで重要な詔勅とされるようになりました。
💡 戊辰詔書(原文)はこちら ➡ 戊申詔書(原文)
文部省の教則にしたがって書かれる歴史
この頃の国定教科書の編者は、歴史には3種類あると言っていました。
一つ目は学問研究の成果によって書かれる歴史
二つ目は世間で大衆小説・講談・芝居などによって楽しむ歴史
三つ目は文部省の教則によって書かれる歴史
です。
学問研究の成果と文部省の教則が食い違う場合、文部省の教則が優先されました。
国体の尊厳を知らせ、忠君愛国の精神を身に付けさせるという歴史教育の目的がある以上、それは仕方のないことと考えられました。
歴史教科書をめぐる問題で、次のような事件がありました。教科書では、鎌倉幕府滅亡後、南朝・北朝が並立していたと書かれていて、これでは「万世一系」に反するのではないかという疑問が出、1911(明治44)年の帝国議会で提起されるまでに大きな問題になりました。
これに対し、政府は即座に南朝を正統として教科書を修正することで対応しました。
臨時教育会議における議論
陸軍大将の寺内正毅(てらうちまさたけ)首相は、1917(大正6)年、学制に関する多年の懸案を解決するため、首相監督下の「臨時教育会議」を発足させました。
総裁には内務大臣時代に戊辰詔書の渙発(かんぱつ=詔勅を広く国の内外に発布すること)を求めた平田東助が就きました。
寺内首相は発足にあたって、国民教育の要は教育勅語の精神をいっそう徹底させ、護国の精神に富んだ「忠良なる臣民」を育成するところにあると述べています。
以下に、以降の教育政策の方針に大きな影響を与えたこの会議体の主な議論内容を紹介します。(臨時教育会議を以下「会議」または「本会議」とする)
国民精神養成の重視
小学校教育の現状について、第一回総会で岡田良平文部大臣が、知育に偏り「国民たるの精神」が十分に育てられていないと指摘。
国民たるの精神の養成には、修身科だけではなく、国史・国語の教育も重要視され、建国の精神、国体の要義を子どもの脳裡に徹底させる必要があるとされました。
大学の拡張と目的の変更
大学に関しては、従来初等・中等教育では徳育が行われているのに、大学では人格形成を促す教育が行われていないことに批判が集まりました。
そこで、従来の帝国大学の目的である学術の教授と研究に、人格の陶冶と国家思想のかん養に留意すべきこと、を付け加えるよう提案がされました。
この目的は提案の通り付け加えられ、国家思想とは何か議論されることもなく、政府の大学支配が強化されることになります。
また、これまで帝国大学だけが大学として認められていましたが、私立にも門戸が開かれ、慶應義塾、早稲田、同志社などが次々に私立大学として誕生しました。
兵式体操
体操では、森有礼文部大臣当時は兵式体操が奨励されましたが、20世紀に入る頃から解剖学・生理学を基礎に考案されたスウェーデン体操が導入されていました。
その後軍部から再度兵式体操にするよう要請もありましたが、牧野伸顕(まきののぶあき)文部大臣が拒否しています。
しかし、本会議で改めて兵式体操とするよう提案されました。軍人勅諭の精神は誠の心であるとし、その育成にとって兵式体操が重要であるというような意見が述べられています。
これに対して、学校教育は自由主義を、軍事教育は絶対服従精神をそれぞれ根底としているので相容れないなどの反対意見も出ましたが、軍事教育推進者の圧力によって押し切られました。
結局会議としては、兵式教練によって勇敢の気をのばし、そこから諸徳目の原動力となる誠心(せいしん)を育て、服従・規律などを身に付けさせ、将来軍務につくときに役立つ素養を獲得させることが重要であるという趣旨の提案が行われました。
この提案は、後の現役陸軍将校の学校配属への道を開くことになります。
第一次世界大戦後の教育
軍縮と軍事教練
第一次世界大戦(1914~1918)後、世界的な軍縮の流れの中で、日本でも1925年に陸軍の四個師団が廃止されました。
その代わり、失職する将校の受け皿として、現役陸軍将校の中学校以上の男子校への配属と、軍事教練の実施が決定しました。
軍縮は一方で軍の学校への影響力が増すという結果を招きました。
社会教育と公民教育
政府にとっては、学生・生徒だけでなく、青年をはじめ社会人を直接管理することも必要でした。
学校教育以外で、青年等に向けた教育を社会教育や通俗教育と呼びました。これより前、小学校卒業後、中等以上の教育に進まない者のための学校として「実業補習学校」が設置されています。
本来の目的は、仕事に役立てるための、小学校教育の補習や簡単な職業訓練でしたが、1924(大正13)年より、公民教育、つまり帝国臣民として学ぶべき内容が追加されました。
理論に偏らず道徳的情操の陶冶(とうや=人の性質や能力を円満に育て上げること)に努めることが注意すべきこととして掲げられており、冷静な科学的判断力、批判的精神が育つのを抑えようとする方針でした。
さらに、小学校卒業後働く青少年の軍事訓練を目的として、1926年「青年訓練所」が設置されます。
ここでは、軍事訓練および修身と公民を中心にした教育が展開され、在郷軍人も指導員になりました。
実業補習学校と青年訓練所は、授業内容が似通い、また重複して通う学生が多くいたことから、1935(昭和10)年に「青年学校」として統合されました。
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