目次
信仰と思想の締め付け
信仰と靖国神社参拝の問題
1931(昭和6)年から勃発した満州事変の戦没者を靖国神社に合祀(ごうし)するにあたり、東京の学生・生徒は配属将校に引率されて参拝することが事実上義務付けられました。
これに対し、1932年、上智大学の一部学生が信仰上の理由から参拝を拒否。軍はこの拒否を重大視し、配属将校の引き揚げという厳しい手段を取りました。
文部省は内務省神社局と協議をし、神社参拝は教育上の理由によるのであり、その際の敬礼は愛国心と忠誠の表現であるとの回答を出しました。
これにより、いかなる信仰を持つ者でも、靖国神社をはじめ神社の参拝を拒否することができなくなり、これ以降学校では神社参拝が強制されるようになります。
民間の思想の取り締まり
政府は国策推進には学校の統制だけでは限界があると考え、1930年代に入ると家庭教育や子どもの学校外の生活にも介入を始めました。また、教員の思想や大学の講義内容にも介入しました。以下に主なものを例示します。
- 1930(昭和5)年、文部省訓令として「家庭教育振興に関する件」を出す。学校普及以前には国民は家風を育てるために家訓を伝え、家庭は「修養の道場」として機能していたが、近年では教育を学校に一任するようになった。訓令では、国家の盛衰の土台は家庭教育であり、特に母親の責任が大きく、婦人の自覚、婦人団体の奮励に期待をかけた。
- 1932(昭和7)年、文部省は校外生活指導に関して訓令を出す。そこでは、複雑化した社会環境が子供に悪い影響を与えている現状を指摘した。そのうえで、少年団などが学校教育と密接な連携を取りながら、敬神崇祖(神を敬い祖先を崇める)・社会奉仕・協同互助・規律節制・勤労愛好等の精神を育てるようにとの方針が出された。
- 多様な思想が社会に広がっていた中、日本の歴史的精神を教師に対して再教育するため、1932年に「国民精神文化研究所」が、1934(昭和9)年に各道府県に「国民精神文化講習所」が、設置される。「講習所」には主として小学校・青年学校の教員が集められ、日本精神の本来の意義とそれを教育するさいの留意事項、ならびに当面の思想問題についての講習が行われた。
- 「報復的刑罰より人道的対応が大切」というロシアの作家トルストイの立場を肯定したことをきっかけに、1933(昭和8)年、文部大臣が京都帝国大学の滝川幸辰法学部教授の休職処分を要求し、さらに同教授の著書を発禁処分にした。これに対し、同大の法学部教授会は、この処分要求が教授の進退については教授会の同意が必要という同大の規則に反するとして、強く反発し全員辞表を提出した。
天皇機関説事件と国体明徴声明
1935(昭和10)年、東京帝国大学教授で貴族院議員でもあった美濃部達吉(みのべたつきち)の「天皇機関説」という学説が、天皇の絶対的尊厳、ひいては国体を否定する危険な学説とされ、右翼団体や在郷軍人会が問題を大きく取り上げました。
天皇機関説とは、主権は国家にあり、天皇は法人である国家の最高機関であるとする学説です(出典:デジタル大辞泉)。このような動きを受け、衆議院では、次のような決議を満場一致で可決しました。
国体の本義を明徴(めいちょう)にし、人心の帰趨(きすう)を一にするは、刻下最大の要務なり、政府は崇高無比(すうこうむひ)なる我国体と相容れざる言説に対し、直ちに断乎たる措置を取るべし、右決議す。
(カッコ内、太字管理人補足)
「明徴」とは、はっきりと証明すること。これに続き、政府は以下の声明を発表しました。
国体を明徴にする声明ということで「国体明徴声明」と言い、さらに声明は二次に及んだため、以下の最初の声明は「第一次国体明徴声明」と呼ばれています。
恭(うやうや)しく惟(おもい)みるに、我が國體(こくたい)は天孫降臨(てんそんこうりん)の際下し賜へる御神勅に依り昭示(しょうじする=明らかに示す)せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚(ほうそ=天皇の位)の隆は天地と倶(とも)に窮なし(=限りがない)。されば憲法發(発)布の御上諭に『國家統治ノ大權(権)ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳(つた)フル所ナリ』と宣(のたま)ひ、憲法第一條には『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼(厳)として天皇に存すること明かなり。若(も)し夫(そ)れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲(為)の機關(関)なりと爲すが如きは、是(こ)れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆(あやま)るものなり。近時憲法學説を繞(めぐ)り國體の本義に關聯(かんれん)して兎角(とかく)の論議を見るに至れるは寔(まこと)に遺憾に堪へず。政府は愈々(いよいよ)國體の明徴に力を效(いた)し、其の精華を發揚(はつよう)せんことを期す。乃(すなわ)ち茲(ここ)に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。
(出典:Wikipedia 国体明徴声明 カッコ内、太字管理人追加)
この声明にもかかわらず、美濃部教授は天皇機関説を取り下げなかったため、軍部などの反発がさらに強くなり、2か月後、政府は追加の声明を発表。
ここでは、天皇機関説にさらなる攻撃を加え、「嚴(げん)に之(これ)を芟除(さんじょ)せざるべからず」と述べています。
芟除とは、雑草などを刈り除くこと(デジタル大辞泉)という意味です。一つの学説に対し、政府がここまで激しい対応を取るのは異例なことと言え、それだけこの問題が大日本帝国の根幹に関わる問題であったことを示しています。
そして、このような排除運動は、後に天皇機関説だけではなく、衆議院議決にあるように「崇高無比なる我国体と相容れざる言説」という、範囲の曖昧な様々な主張に対しても向けられるようになります。
国体明徴の推進:教学刷新評議会と国体の本義
国体明徴推進にあたって最有力の担い手として期待されたのは、やはり学校でした。
1935年11月、文部大臣の諮問機関として「教学刷新評議会」が設置されました。この評議会の答申の第一項において、以下のように述べられています。
我が国に於ては祭祀と政治と教学とは、その根本に於て一体不可分にして三者相離れざるを以て本旨とす。
神をまつること、政治、教育が根本的に一体であるという宣言をしています。そして答申でもっとも警戒されたのは個人主義・自由主義などであり、明治以降、国民とくに知識階級の思想・学問に浸透したことを恐れ、その実情の批判を提案しました。
国体の本義
教学刷新評議会の答申に基づき、それを具体化した書物として文部省思想局は「国体の本義」を刊行しました。
刊行のタイミングは日中戦争の発端となった1937(昭和12)年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件の直前であり、5年間に103万部印刷され、学校・社会教育団体などを通じて全国に配布されました。
日本書紀および古事記の神話や古典から、日本の国体の説明に適している部分を抜粋し、そのうえで以下のように記しています。
そもそも我が国は皇室を宗家とし奉り、天皇を古今にわたる中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である。故に国家の繁栄に尽くすことは、即ち天皇の御栄えに奉仕することであり、天皇に忠を尽くし奉ることは、即ち国を愛し国の隆昌(りゅうしょう)を図ることに外ならぬ。忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない。
(カッコ内及び太字管理人補足)
国体の本義全文(外部サイト)
現代語化された全文(外部サイト)
小学校は国民学校へ
同年12月、内閣総理大臣直属の「教育審議会」が設置され、教育刷新評議会の示した基本路線にしたがって、幼稚園から高等教育までの全学校教育の内容・制度の改正に取り組みました。
その結果、小学校の名称は「国民学校」と改められることになりました。国民学校は国民の基礎的錬成を行う場とされ、その一番目の趣旨は、教育全般を「皇国の道に帰一(きいつ)※」させることとされました。
1940年4月から使用開始された小学校用国史教科書の巻頭には、初めて「神勅」が掲載されました。
これは日本書紀・古事記の神話にある言葉で、日本は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫(=天皇家)が治める国であり、天皇の位は天地とともにきわまりなく続くものであるとの宣言でした。
※帰一…違うものでも最終的に一つにまとまること。
戦争に巻き込まれる子どもたち:学徒動員と学童疎開
日露戦争当時は、明治天皇自ら戦時といえども勉強をおろそかにしないように、と述べ、学生や生徒を軍事部門に引き出すことはありませんでした。しかし太平洋戦争ではそれは守られませんでした。
1943(昭和18)年6月、学徒(学生・生徒)の力を戦力増強のため結集させることを目的とした「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定。
名目としては動員は「教育の一環として」ということでしたが、現実は教育とはほど遠いものでした。
大学・高専・青年学校の生徒は学業を中断。工場・農村の勤労作業に従事させられました。
さらに同年10月、勤労動員は強化され、中学校・高校の在学年限が短縮されました。そして大学生は直接戦場へ出陣することを命じられます。
学童疎開
1944(昭和19)年6月、サイパン島が陥落し、アメリカ軍の大型爆撃機B-29による本土空襲が現実のものとして迫ってきました。
そのため、都市の児童を地方へ移住させる「疎開」(そかい)は、東京の国民学校児童を皮切りに、最終的に13の大都市に広げられ、地方に縁故のない児童も35万人が集団疎開として地方での生活を余儀なくされました。
中には疎開先で空襲に遭って命を落とした子どももいます。沖縄から九州へ向けて航行中だった集団疎開船「対馬丸」は、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、800人近い子どもたちが一度に犠牲となりました。
敗戦へ:皇国民錬成教育の終焉
1945(昭和20)年3月、内閣は「決戦教育措置要綱」を閣議決定。アメリカ軍の沖縄上陸が切迫しているという緊迫した事態に即座に対応するため、学徒を防衛の「一翼」、生産の「中核」を担わせることが決定します。
そしてこの要綱を実施するため、5月に「戦時教育令」が制定されました。それは学徒を、食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究等、喫緊に必要とされる重要業務に就かせるとともに、戦時に必要な教育訓練を行うため、学校ごとに教職員と学徒によって学徒隊を組織しようという決定でした。
💡 戦時教育令の原文はこちら ➡ 戦時教育令(原文)
6月の最高戦争指導会議では、国力の現状把握として、「国民道義は頽廃(たいはい)の兆しあり」と分析されました。
度重なる空襲の恐怖もあり、民心は政府から離れていたのです。政府は「国民義勇隊」を新たに結成し、「旺盛な皇国護持の精神」をふるい起こさせ、国をあげて軍隊化しようとしました。
多くの町や村ではそのような余裕はなく、すでに日本中どこの地域でも教育は崩壊していました。
「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」と教える教育勅語以来の徹底した皇国民(こうこくみん)錬成教育は、国民に深くしみ込んでいました。
軍部や政府の言うがままに「神州不滅」を信じながら、多くの子どもたちが沖縄の地上戦、本土空襲、そして原爆によって死んでいきました。
「日本教育小史―近・現代 (岩波新書)」は第3章「軍国主義への加速する歩み」をこう結んでいます。
教育勅語体制下で目立つのは、文部省とその周辺の人たちにより繰り返し行われた知育偏重批判である。とくに1930年代が顕著であった。それがねらうのは、科学的認識、批判的精神の抑圧であり、知育偏重批判を批判し、知育重視を提唱した(略)少数の学者はいたが、大勢は政策に押し流され、右のような結末を迎えたのである。
(太字管理人補足)
こうして明治維新以来77年にわたって営まれてきた天皇中心の体制は終わり、それと一体であった教育政策も終焉を迎えました。
敗戦後の日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導の下、それまでの皇国民教育を一掃し、全く別の教育の道を歩んでいくことになります。
本項は「日本教育小史―近・現代 (岩波新書)」を元に構成しました。
より深く知るために
「日本教育小史―近・現代 (岩波新書)」は、幕末から1980年代までの約120年間の日本の教育の歩みを分かりやすく解説しています。本項および前回「戦前の教育(1)徳育重視の教育政策への道-明治維新から教育勅語まで(1868~1890)」では、この前半部分から一部抜粋して紹介しました。教育政策に詳しくない方でも、日本の教育の流れが時代背景とともによくわかる一冊です。歴史に対する姿勢としては、戦前・戦中の皇国民教育や、戦後の戦前教育の回帰を思わせる動きには厳しい視線を向けています。反対に、教育の自由や多様性を求める改革や動きを歓迎する記述が多くみられます。近代以降の日本の教育政策をざっと知りたい方は、ぜひお手にとって見てください。以下の画像をクリックすることでAmazonで購入できます。
photo:Wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:秋田県能代港町立能代実科高等女学校 裁縫室 (1916(大正5)年)