戦前の教育(1)徳育重視の教育政策への道-明治維新から教育勅語まで(1868‐1890)

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教育勅語への道

大日本帝国憲法の発布

1889(明治22)年2月、「大日本帝国憲法」が発布されました。この憲法の制定は、徳育と国家秩序を重んじる教育の流れを形成するうえで、非常に大きな役割を果たしました。第1条、第3条では以下のように書かれています。

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ

💡 大日本帝国憲法全文はこちら ➡ 大日本帝国憲法 全文(原文)

 

日本は天皇が統治をし、それは不変のものであるということがここに明確にされました。

森文部大臣時代、徳育はさほど重視されてこなかったため、徳育の不十分さに不満を持つ人が少なくありませんでした。

そのこともあり、この憲法に示された内容に反対しない人間を育成するための「徳育」の必要性を訴える動きが活発になったのです。

新憲法発布の翌年、全国の知事が集まる「地方長官会議」では、普通教育における徳育にもっとも時間を割いて議論が行われました。

この会議において、多くの知事たちが、現在の普通教育では知識技術の教授に力が入れられており、「浮薄軽躁の風潮」が広がっていると、次々に不満を訴えました。

教育勅語の発布

このように徳育を求める動きが高まりましたが、森有礼暗殺の次に任命された文部大臣榎本武揚(えのもとたけあき)は徳育にあまり関心がなく、首相の山県有朋(やまがありとも)は、山県の息のかかった内務次官芳川顕正(よしかわあきまさ)を次の文部大臣に据えました。

天皇は勅諭作成を芳川文部大臣に命じ、芳川は女子高等師範学校長の中村正直に原案の作成を命じました。

中村の案はキリスト教色が強く、法制局長官であった井上毅(いのうえこわし)はこの案に猛反対しました。

結局井上と、教学聖旨も書いた天皇側近の儒学者元田永孚(もとだながざね)が中心となり、案を作成しました。案は明治天皇の承認を得て、1890(明治23)年10月30日に教育勅語は発布されました。

教育勅語
教育勅語

 

教育勅語発布の直前、10月7日には小学校教育について定めた「小学校令」が改正されていました。

以前の小学校令は小学校教育の目的を書いていませんでしたが、徳育を重視する層からはこのことについても問題視され、この改正令では第一条に「小学校は児童身体の発達に留意して道徳教育、及び国民教育の基礎、並びに其の生活に必須なる普通の知識技能を授くるを以て本旨とす」という目的が加えられました。

ここで真っ先に掲げられているのは道徳教育であり、次に国民教育です。国民教育とは、一国の特性に関する教育で、言語・習俗・気風・制度・国体など日本に特有とされるものを指しますが、なかでも特に重要なものとして万世一系の天皇を戴くことである、とされていました。

改正小学令では、まず道徳教育があり、その内容は教育勅語によって明示され、次に国民教育があり、その次に知識・技能という順番でした。

教育勅語とその影響

教育勅語の現代語訳(文部省図書局『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』(1940年)の「教育に関する勅語の全文通釈」)全文を以下に紹介します。(太字およびカッコ内は管理人補足。原文及び現代語訳はWikipedia 教育ニ関スル勅語 より)

 


(ちん=天皇)が思うに、我が御祖先(=天皇家の祖先、神話の神々)の方々が国(=日本)をお肇(はじ)めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民(しんみん=天皇と皇族以外の国民)はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。

汝(なんじ)臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い(=仲むつまじくする)、朋友互に信義を以(も)って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範(こうしつてんぱん)並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅(しんちょく=神の与えた命令)のまにまに(=ままに、他人の意思に任せて行動する)天地と共に窮(きわま)りなき宝祚(あまつひつぎ=皇位)の御栄(みさかえ)をたすけ奉(たてまつ)れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗(こうそこうそう=天皇の祖先と今に至るまでの歴代の天皇)の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。


教育勅語発布は、10年ほど前から確固とした教育方針を模索していた政府首脳や天皇側近にとって、感動的な出来事でした。

それだけに、勅語に敬意を表さない者に対しては、政府はそれを抑える強い態度に出ました。

その代表的な事件として、内村鑑三の事件(内村鑑三不敬事件)があります。勅語発布翌年、第一高等中学校で嘱託教員であった内村鑑三は、キリスト教信者であったために勅語に向かって最敬礼をしませんでした(敬礼はした)。

それを理由に、生徒、教師をはじめとして帝国大学教授など多くの者から非難を浴び、内村は体調を崩し自ら教職を辞しました。

帝国大学進学が予定されている生徒たちは国家目的に忠実であり、内村糾弾運動を展開しました。

 

教育勅語に関連した動き

教育勅語は、直接・間接にその後の教育へ様々な影響を与えました。ここではその代表的なものを紹介します。

  • 勅語は学校教育の様々な場面、特に儀式(式典)の席上、教師および生徒が読み、その精神が体得できるよう指導された。
  • 勅語発布の翌年、「小学校祝日大祭日儀式規定」が公布され、紀元節・天長節などの祝祭日に教師・生徒一同が式場で行う儀式の内容が定められた。以下事例。
    • 御真影(ごしんえい=天皇・皇后の写真)への拝礼
    • 万歳奉祝
    • 教育勅語朗読
    • 校長訓示
    • 祝祭日唱歌合唱 など。この中で子どもたちは国体の尊厳を感じ、忠君愛国の精神を身に付けていった。
  • このころより「日の丸」と「君が代」が重視されるようになる。君が代は1880年の作曲当初国歌として定められてはいなかったが、教育勅語発布とともに、学校で国歌として扱われるようになっていった。
  • 改正小学校令に基いて定められた「小学校教則大綱」では、次のような点が強調された。
    • 教育上もっとも重視する点は徳性のかん養であり、全教科で道徳教育・国民教育に留意して教える必要があるとされた。
    • 徳性のかん養そのものを目的とする修身(しゅうしん=現在の教科では道徳に相当)については、尊王愛国の志気を養い国家に対する責務の全体像を知らしめることとされた。
    • 小学校男子の体操は兵式体操とされた。
    • 教科書の統制を強め、特に修身の教科書は教師による教材の自主的編制を抑えた。

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まとめ

徳川幕藩体制を打倒したのちの明治新政府は、近代的な国づくりの根幹に教育政策を置き、重視しました。しかしその政策は様々な思惑が入り乱れる中で、開明と復古、自由と統制の間で揺れ動く期間が続きました。

時代が進むにつれ、徐々に国家統制の道具としての教育の性格がはっきりと現れ、ついに明治維新から23年後、大日本帝国憲法に続き教育勅語が発布されました。これにより、それ以降太平洋戦争終結までの、日本の教育の根幹を規定する方針が打ち立てられることになりました。

本項は「日本教育小史―近・現代 (岩波新書)」を元に構成しました。

 

より深く知るために

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)」は、幕末から1980年代までの約120年間の日本の教育の歩みを分かりやすく解説しています。本項および次回「戦前の教育(2)軍国主義の中の教育-教育勅語以降から敗戦まで(1890‐1945)」では、この前半部分から一部抜粋して紹介しています。教育政策に詳しくない方でも、日本の教育の流れが時代背景とともによくわかる一冊です。歴史に対する姿勢としては、戦前・戦中の皇国民教育や、戦後の戦前教育の回帰を思わせる動きには厳しい視線を向けています。反対に、教育の自由や多様性を求める改革や動きを歓迎する記述が多くみられます。近代以降の日本の教育政策をざっと知りたい方は、ぜひお手にとって見てください。以下の画像をクリックすることでAmazonで購入できます。

 

 

photo:Wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:教育勅語

 

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