東京大空襲(2)-2時間で10万人の市民を焼き殺した焼夷弾の大量投下

Pocket
LINEで送る

広島・長崎への原爆投下を除けば、一回の空襲としては史上最大の犠牲者を出した東京大空襲。わずか2時間で東京の下町は地獄へと変わりました。本項では、東京大空襲のその時を概観します。

真冬のように寒い夜中にB-29はやってきた

1945(昭和20)3月9日、この日は午後から風が強くなり、夜になると突風が吹き荒れるようになりました。二、三日前には雪も降るほどの異常寒波が関東地方を襲っていて、道端に設置された防火用水槽には氷が張り詰めていました。

9日夜10時30分に警戒警報のサイレンが東京に鳴り響きましたが、2機のB-29は一発も投下することなく、海上へ消えていきました。

警報から解放され、多くの人々が眠りについた頃、突如大音響と共に焼夷弾の雨が降ってきました。先ほどの2機のB-29に誘導されてきた、300機以上からなるB-29の大編隊がやってきたのです。これはマリアナ諸島に配備されたB-29のほぼ全勢力でした。

※焼夷弾…東京大空襲(1)-大量虐殺の序章:焼夷弾・ルメイ・ドレスデンを参照

3月10日になったばかりの0時8分、第一弾が現在の江東区に投下されました。

空襲警報が鳴ったのは0時15分で、焼夷弾投下後7分のことでした。この7分の間に東京・下町の広範囲に次々と焼夷弾が降り注いだため、この7分が人々の生死を分ける重大な意味を持ちました。

焼夷弾の集中豪雨の前には、バケツリレーどころか消防車も何の意味も果たせず、むしろ消防車も火炎(かえん)に包まれ、消防士もろとも丸焼けになってしまいました。

 

火災が激しくなるメカニズム

折からの強風にあおられ、火災はさらに激しさを増します。広範囲で火災が発生すると、その範囲内では酸素を消費するため、周囲から火災発生地帯に向け空気が猛烈な勢いで流れ込みます。

また、大火災により激しい上昇気流が発生し、火炎もろとも周囲の人や物を上空に押し上げる現象も発生。このような一連の現象により、空襲の現場では、巨大な炎が突風に押し流されて街を走り回り、渦を巻く現象があちらこちらで起きました。

※このような現象を「火災旋風」(かさいせんぷう)と言い、1923(大正12)年の関東大震災や上記のドレスデン空襲、広島・長崎の原爆投下など様々な場所で確認されています。

 

どこにも逃げ場はない

このような猛烈な炎の中では、早く逃げる行動を取った人の方が生き延びる可能性が高くなりました。

防空演習どおり火を消し止めようとした人や、大きな荷物を持って逃げようと思った人の多くが、逃げ遅れ、火に飲み込まれていきました。

人々は逃げ場所を追い求め走り回りますが、街中が火の海で、上からは旋風に巻き上げられたトタンや桶や瓦など様々な物が落ちてきました。

逃げ込んだコンクリート建ての頑丈と思われた建物も、周囲からの熱で建物内部の可燃物が燃え出し、逃げ込んだ人々の服や荷物も熱によって自然に発火するというありさまでした。

空襲の標的となった下町地区は、隅田川や荒川といった河川をはじめとして、無数の運河が走る地域でした。そのため、熱から逃れようとして、また逃げ場を失って、多くの人が水の中へ飛び込んでいきました。

しかし、川は氷が張るほど冷たく、防火用の厚い服装は水中では身動きを封じました。顔を出しても熱で頭巾(ずきん)や髪の毛が燃え出したり、燃焼によって発生する一酸化炭素で中毒を起こすなど、凍死、窒息死、焼死、中毒死、あらゆる原因で人々は息絶えていきました。

空襲は約2時間後に終わり、午前2時37分、空襲警報は解除されました。しかし、火の勢いはとどまるところを知らず、最終的に鎮火したのは午前8時過ぎでした。

一夜明けた東京の下町は、文字通り廃墟と化していました。

いたるところに散乱する焼死体は学校等に山積みされましたが、ほとんど原型をとどめていないものも多く、鉄カブト(防空用ヘルメット)、金ボタン、財布の金属部分などで死者数を判定せざるを得ませんでした。

どこの誰だか分らぬまま、そのような遺留品を集め、死者数をカウントしていきます。

火葬場も焼けてしまったため、非常措置ととして、都内67か所の公園、寺院、空き地などに仮埋葬されました。5日後の15日までに、仮埋葬された遺体は7万2439体とされます。

警視庁の記録では、焼失家屋26万717戸、罹災者(りさいしゃ=被災者)100万8005人、負傷者4万918人、死者8万8793人(または8万3793)人とあります。

今なお犠牲者数には諸説あり、行方不明者、川や運河から東京湾に流出した人、地下に埋没した遺体、遺族が引き取った遺体などを含めれば、10万人前後の方が亡くなったと推計されます。

浅草松屋屋上から見た仲見世と付近の焼跡(1945年3月19日) 出典:日本写真公社・深尾晃三

 

なぜ下町が狙われたのか

アメリカ軍がこの日の空襲で主なターゲットとしたのは、今の行政区分で言う台東区、墨田区、江東区、中央区のあたりでした。一般に「下町」と呼ばれるこの地域は、木造家屋が所狭しと立ち並ぶ、住宅地でした。なぜこの地域が狙われたのでしょうか。

アメリカ軍が爆撃の照準に指定していた地区(一部)
オレンジ:台東区西浅草
紫:墨田区本所
青:江東区白河
緑:中央区日本橋

東京大空襲(1)-大量虐殺の序章:焼夷弾・ルメイ・ドレスデンで述べたとおり、アメリカ軍では、軍事関係施設や軍需工場に特化して爆撃を行う姿勢から、都市そのものへと対象を変更しつつありました。

3月10日に関するアメリカ軍の「戦術作戦任務報告書」では、この地域は「日本の兵器産業を含む大企業が支配・経営する場所」とされ、そのために大規模空襲の目標たりえるとされています。

壊滅および損害を与えた工業目標は、22か所とされていますが、中には「築地市場および中央卸売市場」「神田青果市場」「江東市場」など、工業・軍事目標とは程遠い場所も含まれていました。

その一方で、B-29が上空を通過したはずの東京湾岸の造船所や工業地帯の被害はわずかでした。

これらのことから考えると、この日アメリカ軍は湾岸の工業地帯を意図的に爆撃目標から外し、東京の中でも木造住宅が特に密集している下町に特化した空襲を行ったと考えるのが自然です。

下町を実態とかけ離れている「日本の兵器産業を含む大企業が支配・経営する場所」と指摘していることは無差別爆撃の正当化であり、本当の目的は

もっぱら下町地域への大量殺戮で、民間人たる庶民層から「戦意の喪失」を目的にしたことは明白である

と「図説 東京大空襲 全集・シリーズふくろうの本/日本の歴史」では指摘しています。

 

空襲により焦土と化した東京・両国駅付近上空。

 

大空襲後の東京と地方都市への空襲

3月10日以降、日本の各都市が次々に無差別焼夷弾爆撃の標的とされました。東京はそれ以降も大規模空襲が繰り返し行われました。

4月、5月と、3月10日の空襲の被害に遭わなかった残りの区部に大規模空襲が繰り返し行われました。

3月10日とそれ以降の空襲が大きく違うのは、被害の程度が減ったことです。4月の東京区部への空襲では、3月10日とほぼ同じ量の爆弾が降り注ぎましたが、死者は約3300人に抑えられました。消火活動より避難を優先させたためと言われています。

5月末までの大規模な爆撃により、東京は全市街の50%が焼失し、名古屋と共に焼夷弾攻撃リストから外されました。

そして6月以降、大都市から全国の中小都市へとB-29の爆撃目標は移り、文字通り全国の小都市にいたるまで焼夷弾で焼き尽くされていくことになります。

中小都市も含めた本土空襲の被害はこちらをご覧ください ➡  【概要】本土空襲

 

アメリカ軍が作成した東京の爆撃被害範囲報告。爆撃の時期ごとに色分けしている。(凡例の時期の部分は管理人訳)

東京大空襲では、多くの子どもが親を失い孤児となりました。そのうちの一人、星野光世(ほしのみつよ)さんにお話を伺いました。インタビュー動画を交えての記事です。ぜひご覧ください。 

 

<東京大空襲を生き延びた少年の物語>

15歳の東京大空襲 (ちくまプリマー新書)」は、少年時代の作家・半藤一利氏の目線で、戦争をどう感じていたのか、空襲をどう生き延びたのか、ソフトな筆致で描くストーリーです。少年の目にどのように戦争は、大人は映っていたのか。半藤少年の想いに触れることで、戦争というものの理解が進むのではないかと思います。
 💡 書評はこちら ➡【書評】15歳の東京大空襲(半藤一利)

 

 

本項は「図説 東京大空襲 全集・シリーズふくろうの本/日本の歴史」を基に構成しました。

 

ブログから

 


関連ページ

photo:Wikimedia, public domain
トップ画像:東京大空襲によって焦土と化した東京。両国駅付近上空から南(東京湾方面)に向かい撮影(米軍撮影)

Pocket
LINEで送る