永久抗戦せよ-フィリピン防衛戦

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マリアナ諸島を攻め落とし、日本機動部隊を完膚なきまでに叩きのめした連合軍は、フィリピンへ大軍を向かわせました。

フィリピンの日本陸軍は状況判断ミスにより、兵力を分散させることに。援軍の見込みはなく、「永久抗戦せよ」の命令の元ジャングルの中で終戦が来てもなお戦い続けた、フィリピン防衛戦を概観します。

 

国運を賭けた「捷一号作戦」

日本軍は1944(昭和19)年7月、「絶対国防圏」の主要な一角であるマリアナ諸島を失いました

したがって大本営としてはさらに方針を転換せざるを得ず、守備範囲を一層縮小することを決定しました。

それは、千島、本土、南西諸島、台湾、フィリピンに至るラインで、これまで大きく太平洋にせり出していた日本の勢力圏はほぼ消滅しました。

そしてこのラインに沿って、敵が攻撃してくれば随時陸海軍の戦力を結集し、反撃するという構想を立てました。これが「捷号(しょうごう)作戦」です。「捷」は「勝」と同じ意味です。

捷号作戦は南から一号、二号…と地域に応じて番号が振られており、フィリピン方面は「一号」であったことから、フィリピンへ進攻してきたアメリカ軍への迎撃は「捷一号作戦」と呼ばれました。

※絶対国防圏とマリアナ諸島の戦いの詳細はこちら ➡ 崩壊する戦線(4)-絶対国防圏の崩壊:マリアナ沖海戦とサイパン陥落

 

捷号作戦の特徴は、これまで部分的に協力することはあったにせよ、基本的に陸軍と海軍の作戦は個別に行われていたものが、開戦以来初めて陸・海・空の立体的な戦争展開を構想したことです。

そのため、フィリピンにおける戦いは、アメリカ軍上陸地点およびルソン島を中心とした陸の戦い、艦隊決戦、航空決戦の3つが連動して行われるものとなりました。

フィリピンの海・空の戦いについてはこちらをご覧ください ➡ 戦艦武蔵沈没す―レイテ沖海戦(1944.10.23-25)

 

アメリカ軍のうち、南西太平洋軍(総司令官マッカーサー元帥)はニューギニアからフィリピンへ進攻することになっていました。

1944(昭和19)年10月、西部ニューギニアより上陸部隊の輸送船団をフィリピンへ送り込み、10月20日、フィリピンのレイテ湾に上陸を開始しました。

レイテ島に上陸するマッカーサー元帥
レイテ島に上陸するマッカーサー元帥。フィリピンを脱出する際の言葉「私は必ずや戻るだろう」(I shall return.)を体現した瞬間だった。

 

フィリピン防衛の重要性

フィリピンは、太平洋戦争開始早々にアメリカに代わって占領をした日本にとっても重要な場所でした。

フィリピン自体が資源の産地であるばかりでなく、ボルネオ、ジャワ、マレー半島といった南方の資源地帯から運ばれてくる資源の輸送ルートに当たり、フィリピンをアメリカに取られれば、石油をはじめとする重要資源の輸送がおぼつかなくなり、戦争の継続そのものが難しくなります。

しかし、この時期になると日本陸軍は太平洋の広範囲に兵を分散させており、フィリピンの全ての重要地域に満足な兵を配置する余裕はありませんでした。

そこで、フィリピン防衛にあたっていた陸軍の山下奉文(ともゆき)大将(第十四方面軍司令官)は、首都マニラのあるルソン島に兵を集中させ、ルソン島を防御の中心とする方針を固めていました。 

フィリピン要所図

青=レイテ湾
緑=タクロバン(レイテ島)
紫=マニラ(ルソン島)
ピンク=セブ島

台湾沖航空戦がもたらしたフィリピン防衛の錯誤

しかし、山下大将のルソン島防衛計画は、大本営陸軍部、そして直属の上官である南方軍総司令官寺内寿一(ひさいち)大将によって覆されました。

それは、10月12日から16日頃にかけ行われた「台湾沖航空戦」によって、日本軍がアメリカ軍空母機動部隊に大打撃を与えたと海軍首脳以外には信じられていたためです。

大本営と寺内司令官は、レイテ湾に現れたアメリカ軍輸送船団と艦隊が台湾沖航空戦で敗れた敗残部隊であり、レイテ島に積極的に進出して上陸部隊を撃破すべきであると考えたのです。

※台湾沖航空戦の詳細は ➡ 戦艦武蔵沈没す―レイテ沖海戦(1944.10.23-25)

台湾沖航空戦で低空飛行で弾幕を潜りアメリカ艦隊に雷撃を試みる一式陸上攻撃機の編隊
台湾沖航空戦で低空飛行で弾幕を潜りアメリカ艦隊に雷撃を試みる一式陸上攻撃機の編隊

 

台湾沖航空戦の結果について、当初大戦果を報告した海軍では、国中が歓喜に湧く中、それが事実誤認であったことを知りながら、陸軍にすら知らせていませんでした。

そのため陸軍中枢ではアメリカ軍機動部隊が壊滅したものと思い込み、この機会を捉えて撃滅すべきであると考えたのです。

しかし、台湾沖航空戦以降も前線で毎日アメリカ軍艦載機が飛び回っていることを知っている山下大将は、アメリカ軍機動部隊が壊滅したとは考えていませんでした。

そのため、これまで部隊の準備を整えていないレイテ島へ急遽部隊を移動させることには反対でした。

しかし、大本営及び寺内司令官はルソン島の兵をレイテへ移動させるよう命じ、山下大将はルソン島へ守備用の兵を残す他は、ルソン島へ移動を開始させました。

山下奉文大将
山下奉文大将

 

アメリカ軍レイテ島上陸

アメリカ軍はレイテ島に続々と兵を送り込み、最終的に20万人以上に達しました。

これに対し、戦闘に参加した日本軍は約9万人でした。アメリカ軍が最初に上陸した「タクロバン」(Tacloban)の周辺を始めとして、各地で激戦が繰り広げられました。

捷一号作戦では、連合艦隊が最後の力を振り絞ってレイテ湾のアメリカ輸送船団を叩くはずでした。

しかし、栗田艦隊はレイテ湾への突入を諦めて反転し、日本本土へ引き返してしまったため、レイテ島の陸上部隊は次々に送り込まれてくるアメリカ軍と、海からの援護なしに戦う必要がありました。

レイテ島に上陸するアメリカ軍
レイテ島に上陸するアメリカ軍

 

アメリカ軍オルモックに上陸

アメリカ軍は日本軍の意表をついて島の反対側に回り込み、12月7日、レイテ島司令部が置いてあった「オルモック」(Ormoc)に上陸。

司令部が攻撃を受ける事態となり、タクロバン方面で進んでいた落下傘部隊と地上からの攻撃による飛行場奪還作戦も中止となりました。

オルモックを奪われた日本軍は、それ以降統制のある行動を取ることはできず、各部隊がそれぞれの判断で戦いを続けました。

アメリカ軍のレイテ島上陸経路
アメリカ軍のレイテ島上陸経路

 

「死ぬまで戦え」という命令

12月中旬にはアメリカ軍はルソン島へ上陸する動きを見せ、実質的にレイテ島守備の必要性は無くなってしまいました。

山下大将はレイテ島の司令部など一部の将兵約900名にセブ島へ移動することを命じ、残存部隊には「永久抗戦命令」を出しました。

死ぬまでレイテ島で戦えという命令です。レイテ島の日本軍は見捨てられた形となり、生きている将兵は終戦まで戦い続けました。

それどころか、終戦を過ぎても日本が降伏したことを信じられず、その後も戦い続けました。

レイテ島の戦いにおける日本軍戦死者は、レイテへ向かう輸送船ごと沈没した将兵も含めると、最大で約9万人と推定されています。捕虜は約1,500人(終戦までが約800人、終戦後が約700人)でした。

一方のアメリカ軍の戦死者は3,504人、行方不明89人、戦傷11,991人でした。

レイテ島を進撃中のアメリカ第1騎兵師団
レイテ島を進撃中のアメリカ第1騎兵師団

 

 次は ➡  ルソン島へ

 

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