ソ連の満州侵攻(下)―絶望の満州から地獄のシベリア抑留へ

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前項「ソ連の満州侵攻(上)―参戦準備と戦闘開始まで」では、ソ連が1945(昭和20)年8月9日にソ連・満州国境(ソ満国境)を越えて進行して来るまでを解説しました。ここでは、引き続きソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)から、ソ連侵攻下の開拓民が置かれた悲惨な状況と、シベリア抑留がどのようにして実行されたのか、詳しく見ていきます。

 

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ソ連侵攻直後の開拓民たち

ソ連の侵攻とともに、国境線に住んでいた多くの居留民や開拓団は、軍や自治体の指示はないまま、戦闘に巻き込まれ、自分たちで行動を決めなければなりませんでした。9日午前4時過ぎにはラジオで避難を呼びかける放送をさせたということですが、どれほどの人が聞いていたのか不明です。ほとんどの人は着の身着のまま、全財産を捨てて、希望と共に開拓した土地を捨てなければなりませんでした。

 

満州開拓青少年義勇隊

1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、単純な移民ではなく、いざとなれば戦える移民が必要だと考えられました。そこで、16歳から19歳くらいの青少年の移民が計画されたのが満州開拓青少年義勇隊で、非常時には関東軍予備隊のような位置付けで戦闘に加わることになっていました。終戦までに8万7千人~10万1千人が派遣されたとみられます。その後各地に動員されたのでソ連侵攻の時にどの程度満州に残っていたのか正確な人数は分かりません。ある資料では、義勇隊員の死者は3077人、未帰還者2218人となっています。

【参考】関東軍とは

 

軍人の家族が優先された避難・逃亡

満州の首都新京では、市民の避難を優先させる手はずになっていましたが、緊急行動に慣れている軍人の家族をとりあえず先に避難させることになりました。しかし軍人の家族優先が既定路線となってしまい、汽車に乗り込もうとする一般市民は憲兵に追い払われるようになってしまいました。8月11日正午までに避難できた者は、新京在住約14万人のうち約3万8千人。そのうち軍関係家族が約2万310人、大使館等役人の関係家族750人、南満州鉄道関係家族が1万6700人。新京の一般市民は汽車で避難することはほとんどできませんでした。

 

民間人を残しての関東軍後退は既定路線

関東軍は事前の作戦計画(ソ連の満州侵攻(上)―参戦準備と戦闘開始までを参照)で全満州の4分の3を捨て、「通化」で朝鮮の防衛を行うことにしていました。「虎頭」など国境地帯のいくつかの場所では関東軍は頑強に抵抗を続けていましたが、大部分は後方に引き上げました。関東軍総司令部は新京を引き払い、通化へと移動したものの、通化は防御のための準備はほとんどできていませんでした。関東軍総司令部の新京からの引き上げは、市民には「我々を見捨てて逃げた」という印象を与え、軍事的には防御の整っていない地へ移動することになったのです。

満州国周辺地図
満州国周辺地図

 

敗戦を覚悟した国家と軍がすべきことは、一般市民の安全の確保であることはヨーロッパにおいては常識でした。しかし日本の軍隊は「天皇の軍隊」であり、市民、国民の生命を守ることよりも、天皇を護(まも)る、すなわち「国体護持」(こくたいごじ)が至上命題でした。天皇を護るには強い軍が必要であり、市民の生命と軍が天秤にかけられるとき、躊躇(ちゅうちょ)なく市民よりも軍そのものの維持が優先されました。当時の日本人住民の感想が残っています。

国家も関東軍もわれわれ一般民を見棄てた。私たちは流民なのであった。棄民なのであった。ソ連軍の飽くなき略奪と凌辱、現地民の襲来、内戦の弾下の希望無き日々…

 

ソ連軍による避難民の大量虐殺

8月14日の昼頃、満州西部、葛根廟(かっこんびょう)という駅のそばの草原での出来事です。興安街(こうあんがい)という街から徒歩で避難してきた、婦女子を大半とする約2000名の日本人居留民が、新京を目指して急進中のソ連軍機甲師団(戦車や戦闘車両を中心とする、機動性の高い部隊)に追いつかれました。

飢えと疲労で何日も歩き続けた人々は、中型戦車14両に蹴散らされ、ひき殺されました。後続の自動車隊から降りてきたソ連兵が、幼児であろうが死体であろうが容赦なく自動小銃を撃ち、銃剣でとどめを刺していきました。何の意味もない虐殺が、満州中で起こり始めたのです。

T34_2 第二次大戦当時のソ連軍中型戦車(増加装甲付きのT-34-76(1941年戦時簡易型))
ソ連軍中型戦車

 

玉音放送でも終えられなかった満州の戦闘

8月15日正午(日本時間)、天皇が直接ラジオに向け話す「玉音放送」により、日本が連合国に対し無条件降伏したことが全国民に伝えられました。これは海外の日本領でも同じで、新京の関東軍総司令部内でも、ラジオのある部屋ごとに関東軍将兵が集まり聞いていました。

しかし、玉音放送は天皇の終戦に関する「意思」を示したものであって、軍隊に対する正式な停戦命令ではありませんでした。戦争を正式に止めるには、現地部隊が停戦し、降伏しなければなりませんでしたが、まだ大本営からそのような命令は来ておらず、満州の現地部隊である関東軍内部では自分たちが前線部隊に対して停戦命令を出してよいのか、意見が分かれました。

日本軍は降伏する時のことを考えておらず、戦争のやめ方が分かりませんでした。また、前線で戦っている部隊には玉音放送すら届かず、降伏したことを知らずに圧倒的な勢力のソ連軍に対し盛んに戦い続けていた部隊もありました。玉音放送の後も、満州では戦いは続き、血は流れ続けたのです。

8月15日の玉音放送をもって、日本政府と軍部は虚脱状態に陥っていたようです。大本営が正式に停戦命令を下したのは、16日の午後4時のことでした。そして関東軍総司令部が関東軍全部隊に対し停戦命令を下したのは17日早朝のこと。しかし、通信網は遮断され、この命令は行き届かないまま戦闘は各地で続けられました。最終的に全ての戦闘が終わるのは8月29日のことで、玉音放送から実に2週間も経っていました。

さらに不運だったのは、大本営の停戦命令でもまだなお戦争を止める条件が整っていなかったことです。それには二つ理由があります。

  1. この時点では日本が降伏の意思表示をしただけであり、国際法上の「降伏」を完了するには、すべての降伏条件を満たす正式調印を待たなければならなかった。
  2. 連合国最高司令官は、アメリカの代表であるマッカーサーであると日本は認識をしていたが、ソ連はそれを認めていなかった。日本はマッカーサーに降伏を伝え、さらに停戦命令を下したことも伝えたが、それはソ連の関知するところではなかった。

また連合国の間で、戦後の日本占領の区域分けの基準は、降伏調印時の各国軍の位置にあるとされていました(米国案「一般命令第一号」)。ソ連軍の目標は全満州、北部朝鮮、南樺太、千島列島すべて、でした。ソ連軍は降伏文書の調印までにその地点まで到達してなければなりませんでした。

その後ソ連と関東軍司令部との間で停戦交渉が行われ、協約が結ばれました。しかし、ソ連側はそれは正式な約束ではなく、守る必要はないと主張し、ソ連側の一方的な蹂躙(じゅうりん)にまかせるしかなくなっていきました。

 

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地獄と化した満州

ソ連軍が侵攻した新京では、ソ連兵に加え一部の中国人(満州人)が競うようにして残された日本人を襲いました。殺人、強姦、略奪、暴行が街中に溢れました。軍人、民間人を問わず、日本軍は丸裸同然でした。そしてこのような状態は満州全土に広がっていきました。当時国民学校五年生であった、俳優の宝田明のハルビン市での体験記が残っています。

女性と子どもは丸刈りになり、日中でも一人で外出することは禁止になった。しかし、白昼、買い物に出かけた近所の奥さんが、マンドリンと呼ばれた自動小銃を抱えたソ連兵に捕まり、社宅裏の空き地で強姦されるのを目の当たりにした。ソ連兵は、夜はもちろん日中も社宅を襲った。時計、ラジオを略奪していった。狙うのは日本人の家だけ。

ソ連兵は対ドイツ戦線での習慣を満州に持ち込みました。ドイツでは、老女から四歳の子供にいたるまで、エルベ川の東方で性的暴行を受けずにいたものはほとんどいない、と言われています。

残された開拓民の集団自決も相次ぎました。命を守ってくれる軍隊に逃げられ、包囲された人々にとって残された自由は死ぬことだけでした。妻や子を自らの手で殺し、最後は自分も死ぬ人が後を絶ちませんでした。

昭和20年5月の時点で開拓団は約27万人。日本帰国までのその後の過酷な生活による病死と行方不明者を入れると、開拓団の人々の死亡は7万8500人に達します。3人に1人は帰らぬ人となりました。

 

シベリア抑留はこうしてはじまった

スターリンは8月24日、極東ソ連軍総司令官に対し、全く新しい極秘の命令を下しました。その中では、次のようなことが指示されていました。

Joseph_Stalin_and_Kliment_Voroshilov,_1935
スターリン(左)

 

  • 日本軍軍事捕虜のうち、身体強健な捕虜を最低50万人選抜しておくこと
  • 各捕虜にはソ連軍が捕獲した戦利品の中から、夏冬一着ずつの衣類、寝具類、下着類、生活用品および炊事設備付き車両を与えること

この実施要項には、50万人の日本軍将兵の移送先の場所、人数、職種などの割り当てが一覧表となり添付されていました。この50万の人々は、シベリア等での強制労働に従事させられる予定でした。

ソ連は降伏後のドイツに対し、様々な資産を持って連合国に対し補償することを求めましたが、その中で労働力も求めていました。労働力、すなわち捕虜による強制労働です。これがそのまま日本にも引き継がれていきました。

冬のシベリア
寒さの厳しいシベリア

 

ソ連軍はスターリンの要望している「最低でも50万人」に、関東軍の捕虜の数が満たないことを知ると、軍人であるかどうかに関係なく、満州の街のあちこちで片っ端から日本人男性を狩り始めました。20歳以上45歳くらいまでの男性は民家に押し入られ、引っ張り出されました。

戦争終結と同時に、ソ連占領下に置かれた満州、北朝鮮、千島、樺太と日本本土の通信は全く途絶えてしまいました。その地の日本人がどのような状況に置かれているのか、日本政府にも知るすべは全くありませんでした。このため、外務省が日本兵がシベリアに送られている事実を知ったのは1946(昭和26)年3月のことです。それもAP通信(アメリカの通信社)が報じたことからです。

日ソ間で日本人捕虜の送還に関する交渉が始められたのはその後のことで、一応協定が1946年12月に成立しましたが、ソ連側は守ろうとしませんでした。

シベリアでは食料や衣類もまともに与えられず、過酷な労働と病気、寒さ、飢えで多くの日本人捕虜が死んでいきました。日本の厚生省(現厚生労働省)の調査では、将兵56万2800人、役人・警察官・技術者など1万1730人、総数57万4530人がシベリアに送られたとされています。このうちソ連から引き揚げてこられたのは47万2942人。差引10万人以上がシベリアで眠っていることになります。

この項はソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)を元に構成しました。

 

【「ソ連の満州侵攻(上)―参戦準備と戦闘開始まで」に戻る】

 

<書籍紹介:ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)

ソ連の満州侵攻をとても丁寧に描いた大作。ソ連の思惑、日本の対応、戦闘の侵攻、民間人の被害、そしてシベリア抑留…
ソ連の満州侵攻はこの一冊であますことなく分かります。今回、本項では、スペースの関係で満州の悲劇に関する多くの事例を割愛しました。具体的な事例や日本軍の葛藤、関東軍とソ連軍との駆け引きなど、より深く知りたい方はぜひ本書を手に取って見てください。以下画像をクリックでアマゾンで購入できます。

 

photo: wikipedia, public domain
アイキャッチ画像…ドイツ軍と交戦するソ連兵

 

 


 

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