ソ連の満州侵攻(上)―参戦準備と戦闘開始まで

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1945(昭和20)年8月9日深夜零時頃、当時日本の傀儡(かいらい)国家であった「満州国」に対し、ソ連(ソビエト連邦)が突如侵攻を開始しました。

多くの民間人の犠牲者を出し、戦後50万人以上の人がシベリアで過酷な労働を強いられ、さらには北方領土問題の起源となるソ連の満州侵攻。ここでは、「ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)を元に、ソ連の対日参戦(日本と戦争すること)の準備から攻撃開始までを見ていきます。

※傀儡国家…形式的には独立しているが、実質的には他国によって操られている国家(goo辞書より)

 

満州国の位置
満州国の位置

 

ソ連はなぜ対日参戦を決めたか

ソ連軍最高司令部が満州侵攻の作戦計画の検討を始めたのは1945(昭和20)年2月初旬、アメリカ、イギリス、ソ連によるヤルタ会談が開かれたあたりのことです。

表向きは連合国の作戦に協力するという建前でしたが、その後のソ連の行動を見ると、対日参戦を行ったのは、領土をはじめとする様々な利益を日本から奪うためというのが最も納得のいく理由のように思えます。

日本がソ連の参戦前に降伏してしまえば、戦後ソ連の日本に関する取り分はなくなってしまいます。それを避け、日本の領土や労働力、その他様々な資材等を得るために、スターリンはドイツ降伏後一日も早く対日参戦する必要があると考えました。

 

満州国境に150万人以上の兵力を終結させる

攻撃をする側は防御側の2倍以上の兵力を集めなければ勝利の可能性を十分に上げられないという、戦争の定理にしたがい、日本軍の3倍の兵力、100万人以上をヨーロッパ戦線から東へ移動させることにしました。

軍部の計画では、上記の準備を完了するにはドイツ降伏後4カ月はどうしても必要と考えましたが、ソ連の最高指導者スターリンはそれには不服で、3か月以内にソ連・満州国境(以下「ソ満国境」)に集結させよと厳しい命令を下しました。

💡 満州とは ➡ 満州(まんしゅう)
💡 満州を日本が支配するまでの経緯 ➡ 日中戦争への道(2)-「満州事変」日本の中国政策の大転換点

 

計画では、全兵力約157万人、戦車および自動走行砲約5500両、各種大砲約2万6千門、戦闘機および爆撃機約3400機、海軍機約1200機、資材や補給物資をヨーロッパ戦線から大至急ソ満国境に配備しなおすという空前の規模のものでした。

五ヶ月余りの対日戦準備期間中に、これらの戦備を満載した貨車約13万6千両がシベリア鉄道9000~1万2000キロを走ったといいます。兵員は5月上旬のドイツ降伏直後から7月初旬にかけて大輸送が行われました。

日本軍の対ソ準備状況

一方で、対する日本軍は南方や太平洋方面での戦況が悪化し、精鋭と呼ばれた満州を守る「関東軍続々と引き抜いて第一線へと転用していました。ソ連侵攻までに25万人(12個師団)がフィリピン、台湾、沖縄、中部太平洋の島々へ送られていました。

※関東軍…日本陸軍のうち、満州を守備する軍。「関東」とは日本の関東地方のことではなく、万里の長城の付け根にある「山海関」(さんかいかん)という要塞(ようさい)の東という意味。

 

Kwantung_Army_Headquarters 関東軍
関東軍総司令部

 

また、日本は日ソ中立条約の有効期限が切れておらず、ソ連がすぐには攻めてこないであろうという観測を持っていました。

ソ連を仲介としてアメリカやイギリスとの和平工作を進めたいという思惑から、ソ連が日本に警戒心を抱かないよう刺激しないことに努めました。

これらのことから、関東軍の対ソ戦準備は非常にゆっくりしたものでした。

大本営は1945年4月にソ連が日ソ中立条約破棄を通告してきたこと、またソ満国境において戦備を増強していることが判明したことから、5月30日に関東軍に対して対ソ作戦準備を命じましたが、関東軍が作戦計画を決めたのは7月5日のことでした。

このゆっくりとした準備から、太平洋の島々や沖縄をはじめとする本土の悲壮な戦いとは、満州は別天地だったと言えます。

関東軍が作成した対ソ作戦とは、満州の広大な原野を利用して後退しつつ持久戦に持ち込む、というものです。

戦闘が始まれば、関東軍総司令部も満州の首都である「新京」を捨てて、満州南部の「通化」に移ります。

主力は戦いつつ後退し、全満州の4分の3を放棄し、最後の抵抗を通化を中心とした陣地で行います。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛するという作戦でした。

地図
満州国周辺図

 

先述したように、この作戦を決定したのが7月5日であり、このための準備完了予定日を9月末としていました。つまり日本軍はソ連の侵攻はその後であると考えていたことになり、敵の攻撃意図をつかんでいませんでした。

関東軍の前線の部隊や一部の大本営参謀はソ連の早期来襲を予想し、進言する者もいました。

しかし、先に述べたような希望的観測、さらにはソ連が侵攻して来たら日本軍の作戦は全て瓦解(がかい=瓦が崩れ落ちるように壊れてしまうこと)するという現実によって、大本営や関東軍の上層部はソ連の早期侵攻の可能性を考えられなくなってしまっていたのです。

8月2日、関東軍報道部長は、新京のラジオ放送で次のように述べています。

関東軍は盤石(ばんじゃく)の安きにある。邦人、特に国境開拓団の諸君は安んじて、生業に励むがよろしい

ソ連軍が侵攻してきた場合、放棄すると決められている土地に住む人々は、このような放送を聞かされ、何かあれば関東軍が守ってくれるものと信じていました。

執拗に攻撃開始日を早めるスターリン

ソ連参謀本部は8月22日から25日に国境を越えて攻撃を開始するという計画を立てました。しかしスターリンはそれにも不満で、軍部の反対にも関わらず、8月11日に攻撃開始という命令を下しました。

日ソ中立条約に署名する松岡洋右外相
中央の髭を蓄えているのがスターリン(スターリンの前で座っているのが、日ソ中立条約に署名する松岡外務大臣)

おそらくソ連は7月16日のアメリカの原爆実験成功と、その後の日本への投下命令をスパイからの情報でつかんでいたと思われます。そのため、スターリンは日本が原爆投下によって早期に降伏するのではないかと恐れ、対日侵攻を急いだと考えられます。

作戦行動区域は南北1500㎞、東西1200㎞。ドイツ、イタリア、日本本土を全部ひっくるめた面積が満州における戦場でした。ソ連の兵士はヨーロッパにおける戦いで疲れ切っていました。

 

突然の宣戦布告

8月8日午後11時過ぎ、駐ソ大使佐藤尚武(なおたけ)はソ連の外務大臣モロトフと面談。

佐藤大使は、春から日本政府がソ連政府に申し入れてきた、対アメリカ・イギリス戦争の和平仲介の依頼に関する待ちに待った回答が手渡されるものと思っていました。

しかし、渡されたものはなんと対日宣戦布告状でした。こうしてソ連は日本に宣戦布告し、その直後、8月9日零時過ぎから怒涛の様に満州国境のソ連軍が攻撃を開始しました。

 💡 ソ連の対日宣戦布告文はこちら ➡ ソ連―対日宣戦布告文

 

東京の大本営は関東軍総司令部に対し、ソ満国境での軍事衝突を大きくしないようにという命令をこれまで出していました。ソ連軍が国境を越えて攻めてきたという報告を受けてからも、本格的な軍事攻撃であるという確証が持てませんでした。

そのため、攻撃開始から約3時間経った午前三時頃の関東軍総司令部による命令では、前線各部隊に対し「侵入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに全面開戦を準備すべし」と、全面戦争を「準備するように」という命令にとどめています。

しかしソ連軍の怒涛の攻撃を受け、ついに午前六時、関東軍総司令部は大本営の命令を待つことなく、戦闘命令を下しました。

大本営ではソ連侵攻に対する作戦命令を作成しましたが、それが発令されたのは侵攻から約13時間経った午後1時のことでした。しかも、重要なことに、

  • ソ連の戦闘規模はそれほど大きくない
  • 関東軍は敵の侵攻を砕きつつ、速やかに対ソ作戦の発動を準備すること

という趣旨のことを作戦命令で述べています。既に大規模に侵攻が始まり、多くの被害が出ているにもかかわらず、侵攻の規模はそれほど大きくないと言い、作戦発動を準備するように、という程度にとどまっているのです。

これについて当時の参謀は戦後、アメリカとソ連が仲間割れする可能性が当時はあり、ソ連に日本に有利に働いてもらうためにも、関東軍が全力でソ連を敵に回さない方がよい、という判断が働いた、と述べています。

次の項「ソ連の満州侵攻(下)―絶望の満州から地獄のシベリア抑留へ」では、ソ連侵攻下の満州開拓民が置かれた状況と、シベリア抑留がどのように始まったのか、探っていきます。

 

本項は「ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)」を元に構成しました。

 

書籍紹介:ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)

ソ連の満州侵攻を丁寧に描いた大作。ソ連の思惑、日本の対応、戦闘の侵攻、民間人の被害、そしてシベリア抑留…
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photo: wikipedia, public domain
アイキャッチ画像…ノモンハン事件での日本軍

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