日中戦争への道(1)-大陸進出の足掛かり:日清・日露戦争と第一次世界大戦

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日本は太平洋戦争へ突入するかなり以前から、中国大陸で幾度も謀略を行い、大小の戦闘を繰り返してきました。太平洋戦争の遠因もこの中国との戦争にあります。なぜ歴史的にもつながりの深い中国と戦争をすることになってしまったのか。隣国との血生臭い歴史はどのようにして生まれ、その結果何を引き起こしたのか。日中戦争が本格化するまでを3回に分けて考えます。

第一回目の今回は、明治後期に行われた二度の対外戦争である日清・日露戦争と、第一次世界大戦を経て日本が中国大陸に足掛かりを作る経過を見ます。

 

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日清・日露戦争

明治維新後、急速な勢いで近代化の道を進んだ日本は、明治時代に日清戦争日露戦争という二つの大きな対外戦争を経験しました。このことが、近代日本が中国の領土に足掛かりを作る契機となります。以下、二つの戦争の結果、朝鮮半島と中国の領土に関する部分を抜粋します。

1894(明治27)年、朝鮮半島をめぐって日本は清(しん=当時の中国の王朝)と対立し、宣戦布告します(日清戦争)。1年弱の戦争で日本は清に勝利し、「下関条約」で以下を清に認めさせました。

  • 清は朝鮮の独立を認めること
  • 遼東(りょうとう)半島、台湾・澎湖(ほうこ)諸島を日本へ割譲(かつじょう=分割し譲ること)

しかし、遼東半島の割譲は、東アジアへの進出をめざすロシアを刺激し、ロシアはフランスとドイツを誘って遼東半島の返還を要求しました(三国干渉)。日本は圧力に屈し、やむなく遼東半島を手放しました。一方で台湾・澎湖諸島は日本領となりました。

 

日清戦争で日本が割譲を要求した3地域青=遼東半島(地図上の点は半島突端の「旅順」(りょじゅん))ピンク=台湾紫=澎湖諸島

 

日清戦争後、ロシアは中国東北部(満州)や内蒙古(内モンゴル)へ勢力を広げ、かつ朝鮮半島に親ロシアの政権を樹立させ、「大韓帝国」(韓国)を築きました。これに危機感を抱いた日本はロシアと外交交渉を行ったものの決裂し、ついに日本とロシアは1904(明治37)年、開戦しました(日露戦争)。多大な犠牲を出し、国力の限界を超えつつあったこの戦争にも日本は勝利し、「ポーツマス条約」にて以下をロシアに認めさせました。

  • 韓国に対する日本の指導・監督権を全面的に認めること
  • (中国領であるものの、ロシアが管理していた)旅順・大連の租借(そしゃく)
  • 長春(ちょうしゅん)から南の鉄道とその付属の利権を日本に譲渡すること

※租借…ある国が、特別の合意のうえ他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること。(出典…goo辞書

 

日露戦争の結果ロシアから得た中国の土地 関係図青=旅順緑=大連紫=長春(ここから旅順までの鉄道とその付属の利権)

 

こうして、日清・日露戦争を通じて日本は中国東北部における足掛かりを得ました。また、朝鮮半島を日本の影響下に置き、台湾を領有するなど、周辺に影響力を強めていきました。

 

第一世界大戦と戦後

1914(大正3)年、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発。ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟側と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商側に大きく分かれることになりました。日本は日英同盟と、日露戦争後ロシアと日露協約を結んでいたことにより、三国協商側に立つことになりました。そのため、ドイツの極東における根拠地である青島(チンタオ)を攻撃し、青島と山東省の権益を奪いました。

 

第一次世界大戦で日本がドイツから奪った青島青=青島、(参考)緑=大連紫=長春 日本が中国本土における勢力範囲を広げていることが分かる。

 

翌年には中国に対して、ドイツが持っていた山東省の利権を日本に譲ること、旅順・大連の租借期限や南満州鉄道の経営期限の延長を求める「対華二十一カ条要求」の大部分を認めさせました。

💡 対華二十一ヶ条要求の全文はこちら ➡ 対華二十一ヶ条要求

 

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大陸への野心の膨張

第一次世界大戦後の不況、シベリア出兵の戦費がかさんだこと、1923(大正12)年の関東大震災などが重なり、1920年代の日本は経済的な苦境に立たされていました。それを解決するために、中国大陸の資源、土地、権益をもとめ、中国東北部への進出を強めました。

1911(明治44)年、内外に多くの課題を抱え、統治能力を失った清朝は孫文(そんぶん)を指導者とする「辛亥(しんがい)革命」によって打倒されました。それ以降、各地に「軍閥」(ぐんばつ)と呼ばれる軍事力を背景とする地方政権が無数に生まれ、地方ごとに統治がなされる群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の状態に陥りました。その中で、南京を拠点とする軍閥である蒋介石(しょうかいせき)が勢力を伸ばし、1924年以降、蒋介石率いる国民革命軍の活躍により、日本の対中輸出がうまくいかなくなるなど、日本にとって不都合な事態が起こります。

北伐終了後(1928年)の中国の勢力範囲図
北伐終了後の中国の勢力範囲図(1928年)。青が蒋介石の国民政府が主に勢力を及ぼす地域。ピンクは各軍閥の勢力範囲。

 

そこで中国東北部の治安維持に当たっていた日本軍部(関東軍)は日本が支援していた軍閥の張作霖(ちょうさくりん)の乗っている汽車を爆破して殺害し、中国側の責任にすることで中国へ進出する口実を作ろうとしました。殺害には成功したものの、日本の策略であることが軍閥側に漏れ、軍閥は敵対していた国民革命軍と協力関係を結び、日本と対立するようになります。結果として、日本は中国での影響力を弱めることになりました。

張作霖
張作霖
張作霖爆殺事件現場
張作霖爆殺事件現場

 

ここまで、明治維新後の日本が少しずつ中国大陸に進出していく様子を見てきました。次は日本の中国政策が大きく変わる重要な事件「満州事変」はどのようなものだったのか考えます。

次は ➡ 日中戦争への道(2)-「満州事変」日本の中国政策の大転換点

 


この項は「詳説日本史B(山川出版社)」を元に構成しました。



photo: wikimedia, public domain
アイキャッチ画像:中国と日本の地図(1844年)

 

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