終戦から沖縄返還までの流れをダイジェストで解説

Pocket
LINEで送る

「二つの中国」

第二次世界大戦後、中国では毛沢東率いる共産党と、蒋介石率いる国民党の内戦が勃発。共産党は勝利をおさめ、1949(昭和24)年、中華人民共和国が誕生します。国民党は台湾へのがれました(中華民国)。

サンフランシスコ講和会議に中華人民共和国と中華民国のどちらを呼ぶかでアメリカとイギリスが話し合いをしたものの決着がつかず、どちらも招待されませんでした。

中華民国との交渉はスムーズに進み、1952(昭和27)年に日華平和条約が結ばれました。しかし共産主義国家の中華人民共和国とは長いこと国交が断絶していました。

1972(昭和47)年2月にアメリカのニクソン大統領が訪中すると、日中国交回復の機運が高まり、その年の9月、首相に就任したばかりの田中角栄が中国を訪問。周恩来総理との首脳会談が行われ、「日中共同声明」を発表し、国交正常化を果たしました。

中華人民共和国は日本に対する戦争賠償の請求を放棄し、日本側は「一つの中国」を尊重し、中華民国(台湾)と断交しました。その結果、先に結んだ日華平和条約は無効に。政治的なつながりは失われてしまいました。

 

ソ連との国交回復

ソ連との国交正常化交渉は1955(昭和30)年6月から始まりました。翌1956(昭和31)年10月、「日ソ共同宣言」が調印。それまでソ連は日本の国際連合加盟を拒んでいましたが、ソ連との国交が回復したことで、国連への加盟が実現しました。

シベリアへ抑留されていた旧日本兵は釈放されることになりました。

北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島)の日本への返還は、「平和条約締結後に色丹島・歯舞諸島の二島を返還する」ことが確認されました。しかし、その後4島返還を主張する日本政府とソ連(ロシア)との間で折り合いがつかず、北方領同問題は解決されないままになっています。

沖縄の占領と返還

1945(昭和20)年6月22日、牛島満(うしじまみつる)司令官が自決。翌23日、沖縄における日本軍の組織的戦闘は終了しました。そのため、沖縄の占領は日本本土より早く、日本が降伏する前から始まりました。

日本の降伏後も本土占領に組み込まれることなく、1946(昭和21)年1月沖縄が日本から分離され、アメリカ軍による直接軍政が続くことになります。

 💡  アメリカ占領直後の沖縄支配の様子はこちら  ➡ 沖縄戦―陸の戦い

アメリカ軍は沖縄を軍事基地化していきます。日本は、沖縄を担保にサンフランシスコ平和条約を結ぶことで、占領に終止符を打ち、国際社会に復帰しました。したがって沖縄ではアメリカの支配が継続することになりました。

ベトナム戦争にともなう基地用地の接収(強制的に取り上げること)とアメリカ兵の犯罪増加によって、祖国復帰運動が本格化ていきます。 1965(昭和40)年以降、アメリカがベトナムへの介入を本格化させると(ベトナム戦争)、沖縄や日本本土はアメリカ軍の前線基地となりました。

「基地の島」沖縄では祖国復帰を求める住民の運動が続き、ベトナム戦争の激化とともにその返還問題があらためて浮上しました。

1968(昭和43)年、小笠原諸島返還が実現。翌1969(昭和44)年には、日米首脳会談で沖縄の核兵器を撤去して(「核抜き」と呼ばれます)、日本本土に返還することが決まりました。

1971(昭和46)年6月、「沖縄返還協定」が調印され、翌1972(昭和47)年5月15日に協定が発効。27年にわたる米軍占領が終わり、沖縄は本土に返還されました。

しかし、アメリカ軍専用施設のほとんどが復帰後も返還されず、沖縄県民の不満と不安は強く残りました。2018年現在、アメリカ軍基地面積は沖縄本島の約15%を占め、国土面積の0.6%しかない沖縄に、全国のアメリカ軍基地面積の約70%が存在しています。

また、沖縄周辺の海・河川・湖沼と空にも訓練区域が設定され、アメリカ軍の管理下にあります。水上の訓練区域面積合計は九州の1.3倍、空は北海道の1.1倍ともなる広大な領域で、沖縄の漁業や航空航路への大きな制限になっています。

 

photo: wikimedia, public domain


本項は以下を元に構成しました。

◆参考文献をAmazonでチェック

Pocket
LINEで送る