終戦から沖縄返還までの流れをダイジェストで解説

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サンフランシスコ平和条約

ポツダム宣言の内容を実行に移すことを目的として行われたGHQによる占領統治。しかし、激しく変動する国際情勢は、日本の利用価値を大きく変えました。終戦から7年後、日本は占領時代を終え、独立の日を迎えることになります。

 

冷戦と占領政策の転換

終戦前から、アメリカとソ連は終戦後の世界の主導権争いを水面下で始めていましたが、日本の降伏により第二次世界大戦が終結したことで、その争いは世界を二分する大きなうねりとなっていきました。

アメリカを盟主(めいしゅ=同盟の中心となる者)とし、資本主義・自由主義を掲げる西側諸国(西側陣営・自由主義陣営)と、ソ連を盟主とし、社会主義・共産主義を掲げる東側諸国(東川陣営・社会主義陣営)とが、軍事・経済・イデオロギーなどあらゆる面で激しく対立・競争する状態に陥りました。

これを、武器を取って戦争をしていないが、激しく対立しているということで「冷たい戦争」、すなわち「冷戦」(れいせん)と呼びます。

アメリカ政府は日本を政治的に安定した工業国として復興させ、東アジアにおける共産主義勢力に対する防波堤とするように政策を変更します。その引き金となったのは、1948(昭和23)年、中国において毛沢東率いる共産党が、アメリカの支援する国民党に対して優勢となったことです。

 

講和へ

GHQも、非軍事化・民主化という当初の占領目的は既に達成されたとし、日本の工業生産能力を低く抑えようとする政策を変更。経済復興を強く推進する政策が促進されました。

1950(昭和25)年6月、日本が撤退した後の朝鮮半島で、社会主義国となった北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争が勃発。日本は軍需物資の供給基地となり、好景気に沸きました。また、日本駐留の在日アメリカ軍が朝鮮に動員されたあとの軍事的空白を埋めるために、GHQの指示で「警察予備隊」が新設されました。

旧軍人の公職追放が解除され、旧軍人は警察予備隊に採用されていきました。 朝鮮戦争で日本の戦略的価値を認識したアメリカは、占領を終わらせて日本を西側陣営に早く編入しようとしました。アメリカは、日本との講和(対日講和)からソ連などを除外し、講和後も日本に駐留することなどを条件に準備を進めました。

※講和…戦争を最終的に終わらせ、平和を回復するための交戦国間の合意。具体的には講和(平和)会議の結果として成立する講和(平和)条約で実現します。条約には領土の帰属(きぞく)、賠償支払、将来の平和保障などが規定されます。(出典:百科事典マイペディア

サンフランシスコ平和条約

日本国内には、ソ連・中国を含むすべての交戦国との講和(全面講和)を主張する意見もありましたが、再軍備の負担を避け、経済復興に全力を注ぐために西側諸国のみとの講和(単独講和)によって独立を回復し、施設提供の見返りに独立後の安全保障をアメリカに依存する道を選択しました。

1951(昭和26)年9月、アメリカのカルフォルニア州サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本と48か国の間で「サンフランシスコ平和条約」が調印されました。翌年4月、条約が発効して7年あまりにおよんだ占領は終結。日本は独立国としての主権を回復しました。

※調印と発効…調印(ちょういん)は各国の代表が条約に署名をすることで、条約の内容が確定したことを意味します。発効(はっこう)は条約の内容が効力を発生することで、それ以降、調印した国々は条約の内容を守り実行しなければなりません。調印と発効の間に間があるのは、条約を履行(りこう)するための準備をしたり、各国内で内容を周知をするためです。

サンフランシスコ平和条約の主な内容は以下の通りです。

【賠償】

  • 日本の太平洋戦争の交戦国に対しての賠償を著しく軽減した。日本から多額の賠償金を取り、日本経済を疲弊させるより、早く日本経済を復興させ西側諸国の一員として力を発揮させるため。
  • 交戦国の戦争被害に対しては、主に役務(えきむ=労働)の供与により賠償を支払う義務を定めた。

 

【領土】

  • 朝鮮の独立、台湾・南樺太・千島列島などの放棄。
  • 南西諸島(九州南端から台湾との間に弧状に連なる島々。沖縄が含まれる)と小笠原諸島はアメリカが統治する。

 

主な交戦国の出席・調印

ソ連:講和会議に出席したが調印せず。

インド・ビルマ(ミャンマー):条約案への不満から出席せず。1952年インドと、1954(昭和29)年ビルマと平和条約を結ぶ。

中国:中華人民共和国・中華民国(台湾)のいずれも招かれず。1952年中華民国と平和条約を結ぶ。

条約外の賠償

冷戦が激化していたため、日本に負担をかけさせないためにアメリカをはじめ多くの交戦国が賠償を請求する権利(賠償請求権)を放棄しました。

一方で、日本軍の占領を受けたフィリピン・インドネシア・ビルマ・南ベトナムの4か国はそれぞれ日本と賠償協定を結びました。日本政府は1976(昭和51)年までに総額10億ドルの賠償を支払いました。

非交戦国のタイや韓国に対しても、日本は賠償に準ずる支払いを行いました。

 

日米安全保障条約

サンフランシスコ平和条約と同時に決まったのが、「日米安全保障条約」(安保(あんぽ)条約)です。独立後も日本国内にアメリカ軍が「極東の平和と安全」のため駐留(ちゅうりゅう)を続け、日本の防衛に寄与することとされました。

条約上は、アメリカが必要とすれば日本のどの地域でも基地として要求することができました。 この条約にもとづき、良く1952年2月に「日米行政協定」が締結され、日本は駐留軍に基地を提供し、駐留費用を分担することになりました。

 

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