目次
レイテ沖海戦はじまる
複数の部隊が連携して行動する日本艦隊に合わせ、連合国軍も攻撃を開始しました。その結果、大きく分けて4つの海戦が発生しました。
1 シブヤン海海戦
栗田中将率いる主力艦隊(以後「栗田艦隊」)は、10月22日、連合艦隊の停泊地であったボルネオ島・ブルネイを出港し、レイテ湾へ向かいます。その途中「シブヤン海」にて、たびたびアメリカ軍空母艦載機の襲撃にさらされました。
艦船は空からの攻撃に弱いため、通常、戦艦部隊の進撃の際には艦載機が上空を守る(援護)のが一般的です。
しかし、この時の日本軍には戦艦を援護する航空兵力は残されておらず、レイテ沖海戦に参加したすべての艦隊がほぼ航空機の援護なしで攻撃をすることとなりました。
そのため、ひとたび敵艦載機の攻撃を受けると、艦船による対空砲火が唯一の防御手段となり、航空援護がある場合に比べて被弾(ひだん=爆弾・魚雷を受けること)の可能性が格段に高くなりました。
このような条件下で敵艦載機の猛攻を受けた第1機動部隊主力は、戦艦大和と武蔵※に攻撃が集中。
特に、早い段階で爆弾、魚雷を浴びた武蔵は徐々にスピードを落とし、艦隊から脱落していきます。そして一艦で脱落した武蔵にさらなる空からの攻撃が浴びせられ、10月24日19時35分、ついに武蔵はフィリピンの海に沈んでいきました。
※武蔵…戦艦大和の同型艦。大和と並んで当時世界最大、最強を誇り、日本海軍の象徴でもあった。
2 スリガオ海峡海戦
西村祥治中将率いる第一遊撃部隊支隊(戦艦2、重巡1、駆逐艦4)(以後「西村艦隊」)と志摩中将率いる第二遊撃部隊(以後「志摩艦隊」)は、栗田艦隊よりも南のコースを通りレイテ湾へと向かいました。
アメリカ軍潜水艦や空母艦載機の攻撃に悩まされつつも、レイテ湾へとさしかかる最後の海路であるスリガオ海峡を通過しようとした時、多数のアメリカ軍高速魚雷艇(武装したボートで、接近し魚雷を発射する戦法を得意とする)が現れ攻撃を仕掛けてきました。
またその後には駆逐艦、巡洋艦、戦艦からなる大部隊による集中攻撃に遭い、西村艦隊はほぼ全滅します。その後に続いた志摩艦隊も大打撃を受け、レイテ湾に侵入することなく撤退を余儀なくされました。
3 エンガノ岬沖海戦
満足な航空戦力のない日本艦隊がレイテ湾突入を成功させるために、敵空母艦隊をレイテ湾から遠く離れた海域へおびき寄せることが計画されました。
その「おとり」となったのが小澤中将の第一機動艦隊(以後「小澤艦隊」)です。
はるか日本から出撃した小澤艦隊は、一挙に南下しフィリピンに接近。それを探知したハルゼー大将率いるアメリカ第三艦隊の空母部隊は一斉に北上し、小澤艦隊との距離を詰めようとします。
おびき出しに成功したことを知った小澤艦隊は反転し北上。ハルゼーの艦隊をレイテ湾から遠く離れた北方に呼び寄せます。
栗田艦隊や西村艦隊を攻撃していたアメリカ軍空母艦載機は、小澤艦隊の出現を知ると、攻撃の矛先を小澤艦隊に向けます。
膨大な数のアメリカ軍艦載機の攻撃を一手に引き受けた小澤艦隊は、ハルゼーの艦隊を北に引き付けつつ、全ての空母が撃沈されました。
日本軍空母機動部隊はここに全滅しましたが、小澤艦隊の作戦目的である敵空母艦隊を北方に引き付ける役目は十分に果たしたのでした。
4 サマール島沖海戦
シブヤン海海戦ののち、小澤艦隊の出現によりアメリカ軍空母艦載機による栗田艦隊への攻撃が止みました。
その隙に栗田艦隊はサマール島を回り、レイテ湾を目指します。ところが、サマール島沖で敵空母部隊を発見。栗田艦隊は一斉に攻撃に移ります。
この時栗田艦隊は発見した敵空母部隊を、敵機動部隊本体と考えていましたが、実際は輸送船を改造した「護衛空母」と呼ばれる小型の空母(アメリカ軍大型空母の1/4~1/5の艦載機しか搭載できない)と駆逐艦の部隊でした(第77機動部隊護衛空母群第三空母隊)。
太平洋戦争開戦直後に就航した戦艦大和は、来る艦隊決戦に備えた日本海軍の虎の子として温存され続け、また航空攻撃主体となった戦況に出る幕も失われてしまい、これまでただの一度も敵艦に向けて砲撃をしたことがありませんでした(シブヤン海海戦では敵艦載機に対しての対空砲火のみ)。
ついに射程距離内に敵を認め、世界最大の主砲を放ちました。栗田艦隊はここぞとばかり猛攻撃を仕掛けたものの、敵の反撃もあり、大打撃を与えるには至りませんでした。
この戦いでアメリカ軍護衛空母1、駆逐艦2を栗田艦隊の砲撃で撃沈しています。
敵護衛空母部隊への攻撃が一段落し、いよいよレイテ湾へ突入するかと思った矢先、栗田中将は突如艦隊の反転を命じます。
一説では、栗田艦隊の後方に新たな敵空母部隊が現れたという電報が送られてきたために、それを撃つために反転北上したと言います。
しかし、戦後の調査では電報の内容は誤りであり、その電報を誰が発信したのかも分かっていません。栗田長官は戦後も反転の理由についてほとんど語らず、その生涯を終えました。
特攻隊はじまる
レイテ沖海戦(捷一号作戦)に呼応して始められたのが、航空機による体当たり攻撃「神風特別攻撃隊」です。
航空機による自爆攻撃の構想は、戦況が悪化してきた1943(昭和18)年からありましたが、反対も根強く実現しませんでした。
しかし、津波のように押し寄せるアメリカ軍艦載機に対し、雀の涙ほどしかない日本軍航空戦力では、まともな作戦では太刀打ちができなくなっていました。
ミッドウェー海戦(1942年6月)、マリアナ沖海戦(1944年6月)における空母部隊の大敗北と、レイテ沖海戦直前の沖縄、台湾、フィリピンの各基地へのアメリカ軍の大空襲によって、日本海軍の歴戦のパイロットはほとんど失われ、資源不足により航空機の生産も追いつかず、艦載機を載せる空母も極めて少なくなっていました。
このような状況の中、わずか40機程度しかない基地航空隊を目の当たりにし、着任したばかりの大西瀧治郎 第一航空艦隊司令長官は、体当たり攻撃を決断します。
組織的な体当たり攻撃に初めて遭遇したアメリカ軍は、レイテ沖海戦とその後しばらく、特攻によって大きな損害をこうむります。
レイテ沖海戦の期間では、護衛空母1隻撃沈、護衛空母3隻に大きな被害を与えました。この戦果に刺激され、例外として始められた特攻は海軍のみならず陸軍も積極的に特攻を正規の作戦として取り入れていきます。
しかし、対する連合軍も特攻に対する対処方法を編み出し、レイテ沖海戦から約半年後の沖縄戦では、ほとんどの特攻機が敵艦に近づくことすらできなくなっていました(詳しくは「沖縄戦-空の特攻作戦」参照)。
こうして、日本が藁にもすがる思いで挑んだ捷一号作戦は敗北に終わりました。日本海軍は連合艦隊を実質的に失い、またフィリピンの陥落が現実的なものとなることで、石油や鉱物資源などの安定的な確保も絶望的になったのです。
レイテ沖海戦 戦力・損害比較
日本 | 連合国 (主にアメリカ軍) |
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目的 | アメリカ軍レイテ島補給・支援部隊の撃滅 | 日本軍の迎撃 |
主な戦力 |
正規空母 1 |
大型空母 9 (720機以上搭載※2) 軽空母 8 (200機以上搭載) 護衛空母 18 (360機以上搭載) 戦艦 12 重巡洋艦 11 軽巡洋艦 15 駆逐艦 141 潜水艦 多数 |
主な損害※3 |
正規空母 1 (100%) 軽空母 3 (100%) (艦載機多数) 戦艦 3 (33%) 重巡洋艦 4 (31%) 軽巡洋艦 1 (17%) 駆逐艦 7 (21%) |
大型空母 0 (0%) 軽空母 1 (13%) 護衛空母 4 (22%) 戦艦 0 (0%) 重巡洋艦 0 (0%) 軽巡洋艦 0 (0%) 駆逐艦 2 (1%) 潜水艦・艦載機 不明 |
結果 |
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※1艦載機…航空母艦(空母)には敵機撃墜を主目的とした戦闘機、敵艦隊や地上施設を破壊するための爆撃機・攻撃機・雷撃機(国によって呼び方が異なる)など、複数種類の航空機を搭載(とうさい)する。これらをまとめて航空母艦に搭載されている航空機ということで「艦載機」(かんさいき)と呼ぶ。
※2アメリカ軍の空母艦載機数…大型空母、軽空母、護衛空母の一艦当り最低搭載機数を各80機、25機、20機と仮定し推計(レイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)より)。
※3…軍艦は沈没・大破の数、%=参加戦力のうちの損耗率(戦力/損害)
表のデータ出典:Wikipedia、レイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)
より深くレイテ沖海戦を知るために
レイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)は豊富な写真、イラスト、そして分析でレイテ沖海戦の実態と裏側をあますところなく描く一冊です。レイテ沖海戦が日・米双方のどのような思惑で進められたのか。どのような人たちがどのような思いで参加したのか。詳しい解説と深い洞察が得られる貴重な一冊です。レイテ沖海戦がどのようなものだったのか、多角的、総合的に知りたい人はぜひお読みください。
レイテ沖海戦(半藤一利著)は、レイテ沖海戦の実相に迫る一大戦記ドキュメントです。艦隊乗り組み員のそれぞれの立場から、戦闘の経過を描き出します。まさに今目の前でレイテ沖海戦が進行しているような錯覚を覚えます。そして若くして南の海に命を散らしていった兵士たちの感情が迫ってきます。涙なしには読めない一冊です。
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この項はレイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)、オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争を元に構成しました。
photo:Wikipedia, public domain
トップ画像:戦艦武蔵と同型の戦艦大和(試験運転中の写真)