1941(昭和16)年12月8日の開戦から約半年、日本軍は連勝を続け、想像以上の速さで進撃しました。その勢力圏は中部太平洋と東南アジアのほぼ全域に及びました。
しかし、緒戦の打撃からようやく立ち直りつつあったアメリカ軍を中心とする連合国軍の反撃が始まると、日本軍の進撃スピードは一気に落ちていき、やがて敗退を続けるようになります。
本項では、その転換点となる、1942(昭和17)年5月から、1943(昭和18)年2月までの、主な戦いを中心に見ていきます。
本項の重要地点
オレンジ=ラバウル、青=ポートモレスビー、緑=ガダルカナル島、茶=ミッドウェー島、黒=ハワイ・真珠湾
青写真のなかった第二弾作戦
開戦早々に南方資源地帯を抑えるのが日本軍の大目標であり、これを「第一弾作戦」とすると、その後の「第二弾作戦」をどうするのか。日本陸海軍には、開戦時に第二弾作戦についての明確な青写真はありませんでした。
陸軍は本来、中国大陸の制圧とソ連への対応を最も懸念しており、太平洋やインド洋に大きく展開し、占領地を広げることは考えていませんでした。そのため、「国力の限界」を理由に、海軍の拡張的な作戦案に基本的に反対していました。
一方で、海軍はアメリカ・イギリスの反撃を断念させるためには、オーストラリアやセイロン島(インド南部の島)を制圧する必要があると感じていました。
なかでも、オーストラリアはアメリカの同盟国であり、かつ大陸であるため、連合国軍の反抗の拠点として重要視されていました。インド洋に対しては、4月に機動部隊による攻撃が実施されることとなりました。
💡 インド洋作戦についてはこちら ➡ 【概要】南方の資源確保に向けた作戦(2)-蘭印・インド洋・ビルマ
海軍の中でも、作戦立案の中枢である「軍令部」(ぐんれいぶ)と、現場部隊である「連合艦隊」の間では意見が分かれていました。
軍令部はアメリカとオーストラリアの間の輸送路を断ち切り、オーストラリアの反抗拠点としての価値を無くすことに焦点を置くべきであると考えていました。
一方で、山本五十六司令長官の連合艦隊は、一挙にアメリカの戦争に対する意欲を失わせるため、ハワイを攻略(占領)するべきであると強く主張します。
ハワイ侵攻の前段階として、ハワイ西部に浮かぶ「ミッドウェー島」を攻略し、ここを拠点として準備を整えると共に、敵機動部隊をおびきよせ、一挙に叩くことを主張していました。
結果として、連合艦隊司令部が意見を押し通すこととなり、ミッドウェー島攻略と、その前段階として「MO作戦」発令が決定されました。
MO作戦・珊瑚海(さんごかい)海戦
日本海軍が開戦早々に占領し、基地を置いていたニューブリテン島の「ラバウル」、ニューギニアの「ラエ」、「サラモア」といった地点に、連行国軍はたびたび空爆を加えていました。
そこで、連合国軍の航空基地のある、ニューギニアの「ポートモレスビー」を攻略し、連合国軍の攻撃を阻止しようとしたのが「MO(エムオー)作戦」です。
(日本軍基地)
オレンジ=ラバウル、ピンク=ラエ、紫=サラモア
(連合国軍基地)
青=ポートモレスビー
(戦闘海域)
茶=珊瑚海
1942年5月3日、ラバウルを出発した「ツラギ攻略部隊」は、ガダルカナル島の東に浮かぶ小島である「ツラギ」という島を占領します。
一方、アメリカ軍は暗号解読によってMO作戦の全容を把握していました。そして5日、空母2隻を珊瑚海(さんごかい)に待機させながら、ツラギを占領した日本上陸船団を攻撃。日本軍もすかさずアメリカ軍空母部隊に攻撃を挑みますが、発見できませんでした。
逆に、ポートモレスビー上陸を目指した船団がアメリカ軍に発見されてしまい、護衛をしていた空母「祥鳳」(しょうほう)を撃沈されてしまいます。
8日早朝、日本軍偵察機がアメリカ軍空母を発見。ただちに日本軍攻撃隊は攻撃を開始し、爆弾、魚雷各2発(アメリカ軍発表)が正規空母「レキシントン」に命中し、レキシントンは沈没しました。
また、同じく正規空母「ヨークタウン」には爆弾1発が命中し、破損させました。
一方でアメリカ軍機は日本軍大型空母の「翔鶴」(しょうかく)、「瑞鶴」(ずいかく)を攻撃。翔鶴の甲板に打撃を与えるも、沈没には至りませんでした(珊瑚海海戦)。
この戦いは、史上初めて敵味方双方の艦隊が姿を見せずに戦った海戦となりました。
戦果は日米共に空母一隻撃沈、一隻大破となりましたが、撃沈された日本軍空母は小型の護衛空母である一方、アメリカ軍は大型の正規空母であるため、その点ではアメリカ軍の方が被害は大きかったと言えます。
しかし、日米双方、多くの戦闘機搭乗員を失いました。特に日本側は、空母の修理と搭乗員の補充に時間がかかることとなり、MO作戦の中断を余儀なくされました。
戦闘の被害をより多く敵に与えたという意味で、戦術的には日本の勝利でしたが、日本軍の作戦目的を阻止したという点で、戦略的にはアメリカ軍の勝利となりました。
ミッドウェー海戦
珊瑚海海戦から約1か月後の6月4日早朝、ミッドウェー島のアメリカ軍基地を爆撃するべく、4隻の日本軍空母から攻撃機が飛び立ちました。
この攻撃は、ミッドウェー島のアメリカ軍基地を航空機による爆撃で叩き、その後上陸、占領することを目的としつつ、その過程で敵空母機動部隊が出てくればそれを叩くという作戦でした。この「ミッドウェー作戦」には、日本からは大型空母4隻を主力とし、多数の艦船と上陸用の兵員が動員され、一大作戦の様相を呈していました。
日本軍は万全の態勢を敷き臨んだミッドウェー作戦でしたが、アメリカ軍は日本軍の暗号を解読しており、作戦の情報は掴まれていました。
一方、日本軍は敵空母機動部隊を発見できず、ミッドウェー島の基地への航空攻撃を繰り返そうとしていたところ、突如現れたアメリカ軍攻撃機に空母の真上からの攻撃を許してしまい、一挙に空母3隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」(あかぎ、かが、そうりゅう))を失ってしまいました。
残る一隻の空母「飛龍」(ひりゅう)の搭載機によって反撃を試み、アメリカ軍正規空母「ヨークタウン」に打撃を与え、航行不能にします。
のち、ヨークタウンは日本軍潜水艦によって撃沈されました。しかし、残った飛龍も敵の猛攻撃にさらされ、沈没します。
この海戦によって、日本海軍は主力空母4隻と、搭載機263機全機、そして多数のパイロットを一度に失うという大打撃をこうむりました。
一方のアメリカ軍は、正規空母1隻を失うだけで済みました。
アメリカよりも工業生産力ではるかに劣る日本は、敵と戦いながらこの打撃から回復するのはとても難しいことで、この後、日本軍の緒戦の連勝の勢いは止まり、じりじりと追い詰められることになります。
さらに、戦争全体の作戦も見直しを迫られることになります。
💡 ミッドウェー海戦詳細はこちら ➡ ミッドウェー海戦(1)作戦目的―ハワイ攻略の前哨戦
ガダルカナル島をめぐる戦い
ミッドウェー作戦に敗れ、多数の空母と搭乗員を失った日本は、機動部隊による作戦が難しくなりました。
そこで、ソロモン諸島のひとつ、「ガダルカナル島」(以下「ガ島」)に航空基地を築き、そこからハワイとオーストラリア間の輸送路ににらみを利かせることにしました。
1942年7月1日、日本軍はガ島に飛行場の建設を開始します。ガ島には、飛行場建設のため約2500人の設営部隊と、守備隊として約300人の兵士(陸戦隊)が乗り込みました。
飛行場がおおよそ完成しようとしていた8月7日、突如アメリカ軍の大軍がガ島に攻撃を仕掛け、上陸を開始しました。ガ島にいた設営隊と陸戦隊はなすすべもなく森に逃げ込みました。
オレンジ=ガダルカナル島
紫=ヘンダーソン飛行場(現ホニアラ国際空港)=日本軍が建設し、アメリカ軍が奪った飛行場
緑=ツラギ島
ガ島を奪回すべく、数度にわたって陸・海・空の激戦が交わされました。
中でも陸の戦いは悲惨を極め、緻密に張り巡らされたアメリカ軍の機関銃や大砲による防御網に日本兵は次々とかかり、戦死しました。
日本軍はガ島へ何度も食糧や武器弾薬の輸送を試みましたが、ガ島の飛行場や付近の空母から襲来するアメリカ軍機に阻まれ、補給は思うようにいきませんでした。
そのため、残された兵は閉ざされた島で、極端な飢えとマラリア、赤痢(せきり)などの病に苦しめられました。1942年12月になると、取り残された日本兵の間では、死んだ戦友の肉を食べたり、食べ物を奪い合うような状況となりました。
12月31日、天皇陛下出席の下開催された御前会議(ごぜんかいぎ)にて、ガ島からの撤退が決まりました。
撤退は周到な準備の下進められ、1943(昭和18)年2月1、4、7日の3日間に分けて実行されました。この戦いで日本軍の戦死者は2万人以上と推測されています。戦死の大部分は餓死と病死によるものでした。
ガ島から日本軍が手を引いた後、アメリカ軍は日本への攻撃スピードを上げ、日本軍は敗退の一途をたどることになります。
💡 ガダルカナル島をめぐる戦い 詳細はこちら ➡ ガダルカナル島をめぐる戦い(1)経緯-日本軍前進基地の奪い合い
本項は、オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争、ミッドウェー海戦―主力空母四隻喪失。戦勢の転換点となった大海空戦の全貌を解明する (歴史群像太平洋戦史シリーズ)を元に構成しました。
photo:Wikipedia, public domain
アイキャッチ画像:珊瑚海海戦で日本空軍機の攻撃を受け、修理中のアメリカ軍空母「ヨークタウン」。1か月後のミッドウェー海戦では戦列に復帰するが、空母「飛龍」攻撃隊 の攻撃を受け沈没する。