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目次
太平洋戦争 開戦の経緯
ちょっとややこしいのですが、太平洋戦争のおおもとの原因は、そのかなり前にさかのぼります。
明治維新(1867年~1868年頃)によって江戸幕府が倒れ、明治政府が樹立して以降、日清戦争(1894年~1895年)、日露戦争(1904年~1905年)を経て日本は中国大陸へ足がかりを築きました。
1931(昭和6)年、中国東北部の「満洲」(まんしゅう)と呼ばれる地域で、日本軍は日本が管理していた鉄道(南満州鉄道=満鉄(まんてつ))の線路を自ら爆破し、それを中国のせいであるとし、満州各地に軍隊を送って武力で制圧しました。
日本は翌年「満州国」という国を建国しますが、この国は日本の軍部の操り人形でした。このような国を「傀儡(かいらい)国家」と言います。
満州を支配下に置いた理由として、主に以下の二つの理由が指摘されています。
【1 経済的理由】
当時日本は深刻な不況に苦しめられていました。そのため、満州の石炭などの資源を手に入れたり、中国国内で物を売ってお金を儲けたり、また日本国内で満足に稼ぐことのできない農民などの移住先として、満州は魅力的な土地でした。
【2 軍事的理由】
日露戦争で辛くも勝利を収めたものの、相変わらずロシア(当時は「ソビエト連邦=ソ連」という社会主義の国になっていました)は日本にとって大きな脅威でした。
満州は、中国大陸でソ連と国境を接しています。そのため、満州を日本を守るための「盾」とすることは日本の国防上重要であると考えられていました。
詳細はこちら ➡ 日中戦争への道(2)-「満州事変」日本の中国政策の大転換点
満州を手に入れた後も、日本の中国大陸に対する野心は止まりませんでした。
満州からさらに南の地域にも兵を置き、ついに1937年7月、北京郊外で現地に駐屯していた日本軍と中国軍との小競り合い(盧溝橋(ろこうきょう)事件)をきっかけに中国との全面的な戦争に突入しました(日中戦争※)。
※当時アメリカは戦争当事国には物資を輸出しないこととしていたため、アメリカからの物資が滞ると困る日本・中国の両国は、戦争開始の宣言である「宣戦布告」をお互いにせず、小競り合いが続いているという形を取り続けました。そのため、当時日本国内ではこの戦争を中国との間で起こった事件であるという意味で「支那(シナ)事変」「日華(にっか)事変」などと呼んでいました。
軍部は、本気になって攻めれば中国はすぐに降参すると当初考えていました。
しかし、アメリカやイギリスから支援を受けていた中国軍は、日本が思ったように降参せず、戦争は長期化していきました。
日中戦争の長期化に伴い、日本では資源が不足していきました。お寺の鐘や学校の二宮金次郎の銅像、家庭内にある子どものおもちゃにいたるまで、生活に必要のないありとあらゆる金属を集めないと戦争を続けることが難しい状態に陥りました。
そこで、日本は豊富な資源のある東南アジアに目をつけました。
中国のすぐ南にある、今のベトナム・ラオス・カンボジアは、当時「フランス領インドシナ=仏印(ふついん)」と呼ばれ、フランスの植民地でした。
本国のフランスが日本の同盟国であるドイツに攻め落とされていたため、日本は容易に仏印に軍隊を進めることができました。
しかし、このことがアメリカにとって許せない一線を越えました。
それまで段階的に日本に対して輸出を止めてきたアメリカは、石油や鉄といった、戦争遂行に必要な資源を含め、すべての物資の日本への輸出をストップしました。
この動きにイギリスやオランダなども加わり、実質的に欧米諸国からの日本への物資輸入はほぼすべてストップします。
もともと、日本が満州を手に入れた時から、日本の軍事行動は欧米から批判を浴びていました。
当時から人口の多かった中国大陸は、欧米諸国にとっても大事な市場、つまり物を売ったり商売をしたりしてたくさんお金を儲けることのできる場でした。
しかし、日本が軍事的に中国を押さえてしまえば、その利益が日本に独り占めされてしまうかもしれません。
さらに、1940(昭和15)年にドイツ・イタリアと三国同盟を結んだことは、アメリカやイギリスとの決定的な対立と受け止められました。
加えて、ベトナムの沖にはフィリピンがありますが、フィリピンは当時アメリカの植民地で、アメリカが利益を得る重要な場所でした。
日本がいよいよ仏印まで来たことで、フィリピンが日本に脅かされるのではないかと考えるようになりました。
戦争継続に必要な資源の供給が断たれた日本は、資源輸出の再開をアメリカと交渉しました。
しかし、アメリカ側は日本が仏印および中国大陸から全面的に撤退することなどを要求。
これは時間の針を10年さかのぼり、満州事変以前の状態に戻せ、ということを意味します。
この条件は日本には到底飲めず、ついに日本はアメリカなどとの戦争を決意するに至りました。
この交渉にあたって、ドイツ・イタリアがヨーロッパの大部分で勝利をおさめ、イギリスも苦境に立たされていたことから、当初アメリカは太平洋方面で日本と戦うことは好ましくないと考えていました。
そのため、日本との交渉を先延ばしし、時間稼ぎをする戦略でした。
しかし、1941年6月にドイツがソ連との間で結んだ不可侵条約(お互いに攻め込まないという取決め)を破り、突如ソ連に対して攻め込んだことで、アメリカはソ連を連合国側に引き込むことで、日・独・伊を中心とする枢軸国に対抗できると考えました。
アメリカは日本との交渉で日本の利益になるような形で決着させる必要はなくなり、むしろ日本を追い詰め、日本から攻撃をさせることが得策であると考えました。
この背景には、当時のアメリカ大統領ルーズヴェルトは、大統領選挙の際にアメリカは他国の戦争には参加しない、と国民に約束していたこと、さらにアメリカ国内の人々の意見として、他国の戦争に関わりたくないという意見が根強くあったことなどが理由として挙げられます。
そのために、ルーズヴェルトは自ら戦争に参加すると言い出すことが難しく、戦争に参加する理由を探していました。
そのとき好都合だったのが、日本を挑発し、日本から戦争を仕掛けさせることでした。
💡 詳細は ➡ 日中戦争から日米開戦へ―資源争奪の末の衝突
太平洋戦争の経緯をざっくりと知りたい。
開戦[1941.12]
経済的・軍事的に日本をはるかに凌ぐアメリカと長期的に戦うことは不利であるため、開戦直後にアメリカに大打撃を与え、戦争を継続する意思をなくさせ、講和に持ち込むことが必要であると日本は考えました。
そうして出てきたアイディアが、開戦と同時にハワイに停泊するアメリカ海軍の大部隊を奇襲攻撃する「真珠湾攻撃」です。
同時に、イギリスのアジアでの重要な拠点であるシンガポールを攻めることが必要と考えました。
1941(昭和)年12月8日朝、日本軍はハワイのアメリカ太平洋艦隊を、航空母艦(空母)に搭載した多くの航空機によって攻撃。
湾内に停泊していた戦艦をはじめとする軍艦を撃沈したり、飛行場の航空機を破壊しました。
同時に、マレー半島のコタバル(現在のマレーシア。当時イギリスの植民地で英領マレーと呼ばれていました)という地点に上陸し、シンガポールを目指して南下を始めました。
💡 詳細は ➡ 開戦-真珠湾への道のり(1941年12月)
緒戦の快進撃[1941.12-1942.5]
日本軍はその後ものすごい勢いで進撃し、年が明けた1942(昭和17)年2月には、南方侵攻の最大の目的であったインドネシアスマトラ島(当時オランダ領)の石油地帯を押さえたほか、イギリス東洋艦隊の拠点であるシンガポールを陥落させました。
最終的に北半球の太平洋のおよそ西半分を占める広大な地域を制圧しました。
戦局の転機[1942.6-1943.2]
ミッドウェー海戦
態勢の整わないうちに日本軍の攻撃を受け、アジアの植民地から撤退を余儀なくされた連合軍でしたが、開戦からおよそ半年後の1942年6月、大きな転機を迎えます。
ハワイの西に位置するミッドウェー島とアメリカの空母部隊を攻撃してきた日本海軍機動部隊(空母を中心として編成される部隊)を、待ち伏せし逆に日本の主力空母4隻を撃沈、搭載していた航空機のほとんどを失わせるという大打撃を与えることに成功しました(ミッドウェー海戦)。
この直前にアメリカは日本海軍の暗号を解読することに成功しており、作戦は筒抜けでした。
これによって日本海軍は、真珠湾攻撃以来海の戦いにおいて主役の座を占めるようになった空母と、優秀なパイロットの多くを失うこととなり、開戦以来の進撃の勢いはストップ。
さらに、この被害から立ち直るのに日本軍は長い時間を要することになります。
ガダルカナル島の戦い
ミッドウェー海戦から2か月後の8月、オーストラリアの北にあたるソロモン諸島の「ガダルカナル島」に築いた日本軍の飛行場を、アメリカ軍が奪い取りました。
その後飛行場を奪い返そうとする日本軍との間で激しい戦闘が何度となく繰り返されましたが、どんどん兵力を増強するアメリカ軍を撃退することができず、ついにガダルカナル島から撤退しました。日本軍はこの戦いに合計で3万人以上の兵力を投入し、2万人以上が犠牲になりましたが、その多くが補給がままならないことによる飢えや病が原因でした。
戦線の崩壊[1943.3-1944.7]
ガダルカナル島を失ったのち、日本は連合軍の反撃により次々に占領していた太平洋の島々を奪い返されることになります。
1944(昭和19)年7月、南方の最も重要な拠点であったサイパン島を奪われました。アメリカ軍はサイパン島とその周辺の島々(マリアナ諸島)に飛行場をいくつも建設。
アメリカが開発した当時最新鋭の爆撃機「B-29」であれば、これらの飛行場から日本の本州のほとんどを爆撃できるようになります。
1945年3月に一晩で約10万人が犠牲になった「東京大空襲」に始まる全国への大規模都市空襲や、広島・長崎へ原爆を投下したB-29は、このマリアナ諸島から飛び立っています。
💡 詳細は ➡ 崩壊する戦線(1943年3月-1944年7月)
日本本土へ迫る連合軍[1944.10-1945.2]
マリアナ諸島を手中に入れたアメリカ軍は、いよいよ日本本土へと迫ってきました。1944(昭和19)年10月、アメリカ軍はフィリピンへ上陸を開始。
20万人以上のアメリカ兵がフィリピンに上陸し、レイテ島やルソン島などでおよそ8カ月にわたり日本軍と死闘を繰り広げました。結果的に日本軍は約50万人の戦病死者を出し、敗北。フィリピンはアメリカ軍の手にわたります。
しかしフィリピンでの最大の犠牲者は現地の住民でした。日本とアメリカの戦闘に巻き込まれたり、ゲリラと間違われて殺害されたり、またゲリラとして戦って殺害されたりなど、太平洋戦争を通じて、フィリピン人の犠牲者は約100万人とされています。
💡 詳細は ➡ 永久抗戦せよ-フィリピン防衛戦
フィリピンをめぐっては、1944年10月23日から25日にかけ、日本とアメリカとの間で大規模な海戦も起きています。レイテ島に向かうアメリカ軍輸送船団を叩くため、連合艦隊はそれまで温存していた戦艦大和・武蔵も動員した作戦を発動(捷(しょう)一号作戦)。
空母部隊を囮(おとり)としたり、戦艦武蔵が撃沈されるなど、多大な犠牲を払いながら、あと一歩のところでアメリカ軍輸送船団を攻撃することができず、作戦は失敗。日本海軍は残ったわずかな戦力を大幅に失う結果となりました(レイテ沖海戦)。航空機に爆弾をくくり付け、敵艦に体当たりする「特別攻撃(特攻)」が初めて行われたのはこの海戦からです。
💡 詳細は ➡ 戦艦武蔵沈没す―レイテ沖海戦(1944.10.23-25)
沖縄戦[1945.3-6]
フィリピン、硫黄島と連合軍は日本本土へどんどん近づいてきました。
そして1945(昭和20)年4月1日には沖縄本島へ上陸を開始。日本軍は民間人を巻き添えにしながら、悲惨な退却を続け、ついに司令官が自決(自殺)し6月23日に組織的な抵抗を終えました。
この間、戦闘機などによる体当たり攻撃、いわゆる「特攻(特別攻撃)」が盛んに行われたり、世界最大の戦艦であった「大和」を中心とする日本海軍の残存部隊で特攻に向かったりと、日本軍はあらゆる手を尽くしたものの、沖縄を守ることはできませんでした。
詳細は ➡ 【概要】沖縄戦
ポツダム宣言から終戦へ[1945.7-9]
日本では1945年春ごろから戦争終結に向け模索が始まりました。
日ソ中立条約を結んでいるソ連に仲立ちをお願いし、アメリカとの和平交渉をしようと考えました。
しかし、ソ連は既に同年2月にアメリカ・イギリスとドイツ降伏後に日本との戦いに参戦すると秘密の約束を結んでおり、日本の和平仲介の依頼にソ連側はのらりくらりとかわすばかりで交渉は一向に進展しませんでした。
7月、ドイツのポツダムに集まったアメリカ・イギリス・ソ連の首脳は、中国も加えて日本に無条件降伏を迫る「ポツダム宣言」を発表。日本政府はこれを「黙殺」(無視して取り合わないこと)しました。
ポツダムで会議が行われている最中、アメリカ大統領トルーマン(4月にルーズベルトが急逝し大統領になっていました)は、原子爆弾の実験に成功したとの連絡を受け取り、即座に日本への使用を決定しました。
8月6日に広島に、9日には長崎に、アメリカ軍によって原子爆弾が投下されました。たった一発の爆弾により、広島では約14万人が、長崎では約7万人が、1945年末までに亡くなりました。
9日には、前日夜に日ソ中立条約破棄を一方的に通告してきたソ連が満州へ侵攻を開始。
これらの相次ぐ動きにより、天皇はついにポツダム宣言受諾を決意。
8月14日、日本はポツダム宣言受諾(じゅだく=受け入れること)を連合国へ通告し、15日には国内と植民地・占領地向けにラジオを通じ天皇自らの言葉でポツダム宣言受諾、すなわち日本の降伏を宣言する放送を流しました(玉音(ぎょくおん)放送)。
9月2日、東京湾に停泊していたアメリカ軍戦艦「ミズーリ」艦上で、日本の降伏調印式が行われました。これにより、太平洋戦争と第二次世界大戦は正式に終結しました。
詳細は ➡ 戦争終結(1945年7月-9月)
玉音放送とほぼ同時に日本軍は停戦しましたが、ソ連軍の活動は止まらず、樺太と千島列島を南下。
最終的に降伏調印後の9月5日に北方四島を含む千島列島最南端まで占領し、攻撃を停止しました。
そして満州では、57万人以上の日本兵等がソ連によって拉致され、極寒のシベリアで強制労働に就かされました(シベリア抑留(よくりゅう))。
さらに詳しい太平洋戦争の流れはこちら ➡ 太平洋戦争の流れ―開戦前からの歴史をダイジェストで解説
太平洋戦争のコンテンツ目次はこちら ➡ 太平洋戦争
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