日本軍の準備
日本軍は沖縄での戦いに関してどのように準備していたのでしょうか。
日本陸軍は、1944(昭和19)年10月頃から本土決戦の研究を進めていました。フィリピン作戦の失敗がはっきりする前から本土決戦の準備は始まっていたのです。
しかし、本土決戦の準備をするにはまだ時間がかかることから、時間稼ぎをする必要がありました。
日本海軍は敵に犠牲を強いながら持久戦を行うという位置付けで、南西方面での航空作戦に前向きでした。
当初は本土決戦前に全航空勢力を使う方針ではありませんでしたが、新規搭乗員の錬成を中止し、練習機も特攻部隊に編入すれば南西諸島方面での航空決戦が可能であるという意見が主流となり、1945年1月には全航空力を投入する航空決戦を行うことを決めます。
新規搭乗員の錬成を中止するということは、その後はもうまともな戦力は望めないことを意味します。
来る沖縄での戦いは、陸軍にとっては本土決戦を前にした時間稼ぎ、海軍は決戦の場という思惑の違いがありました。この目的の違いは戦術面でも表面化します。
陸海軍共に行った航空作戦では、決戦を志向する海軍はアメリカ機動部隊を主な攻撃対象としたのに対し、陸軍は成功率の低い機動部隊ではなく、輸送船などの補給部隊を主な攻撃対象としました。
また、陸軍は沖縄への戦力配備を必要以上には行いませんでしたが、海軍は航空戦力では練習機も含めた特攻を行い、艦隊は戦艦大和も特攻に使うなど、文字通り決戦を挑みました。
1944年9月の時点で、沖縄には多くの陸軍部隊が配備されていました。しかし台湾の兵力配備に不安があったこと、またフィリピンの戦いが迫る中、沖縄を守る第32軍からも兵力が引き抜かれることになります。
沖縄の第32軍は兵力配備に不安を感じ、大本営に兵力増強を何度も願い出ますが、却下され続けます。一度は新規兵力の増強が認められましたが、翌日には取り下げられてしまいました。このようなやり取りが続き、現場の第32軍は大本営に対して不信を抱くことになります。
沖縄本島周辺には、本島北西部沖合の伊江島(いえじま)に大規模な飛行場があるほか、本島の中部に北(きた)飛行場(読谷=よみたん)と中(なか)飛行場(嘉手納=かでな)がありました。
陸軍の当初の作戦意図は、沖縄の航空基地兵力を使ってアメリカ軍に犠牲を強い、持久戦を行うというものでした。そのため飛行場を可能な限り守り抜くということが作戦の重要な点とされていました。
しかし、兵力を引き抜かれ、追加の兵力も断られた現地の第32軍は、陸軍上層部による、飛行場周辺に兵力を集中的に配備するようにという指令を断り、飛行場周辺の守備を放棄します。
伊江島飛行場はあらかじめ破壊し、アメリカ軍に使われることがないようにしました。北・中飛行場周辺にはごくわずかの守備隊を配備するにとどめました。
第32軍は本営を置いた首里(しゅり)周辺を含む南部に強固な陣地を築き、兵力を南部に集中させることとしました。
沖縄本島の兵力配備の移り変わり
1944年10月頃
全体的にバランスよく兵力を配備していた。
1945年2月頃
南部に集中的に兵力を配備する。
この項は「沖縄決戦―太平洋戦争最後の激戦と沖縄県民の戦い―(学研)」を元に作成しました。