宮城事件―陸軍将校によるクーデーター未遂
無条件降伏を決めた政府・軍中枢にとって、それを国民と、各地で展開している軍にどのように伝えるかが次の大きな課題となりました。
これまで「神州不滅」(しんしゅうふめつ=日本は神の国であるから永遠に滅びない)、「一億総特攻」をスローガンに、本土決戦を呼びかけてきていたため、無条件降伏に納得できず反乱が起きる可能性が危惧されました。
そのため、連合国に対しては秘密裏に14日中にポツダム宣言受諾を伝え、国民に対しては14日夜に宮内省で天皇が「終戦の詔書」(正式名称:大東亜戦争終結ノ詔書)を朗読したものを録音し、15日正午にNHKから国内全域と海外の日本領に向けラジオ放送することになりました。
14日、御前会議で無条件降伏が決まったことを知った近衛(このえ)第一師団※1の一部の将校は、陸軍省軍務局の青年将校と組んで、降伏を阻止するためにクーデターを起こしました。
皇居は当時「宮城」(きゅうじょう)と呼ばれていたことから、このクーデター事件を「宮城事件」と呼びます。彼らは近衛第一師団長の森中将の説得を試みるも、クーデターに応じないと見るやピストルで殺害しました。そしてニセの命令を部隊に下し、宮城を包囲して天皇を隔離し、「玉音放送」※2の録音を阻止しようとしました。
※1 近衛師団…天皇と皇居(宮城)守るための陸軍部隊
※2 天皇の肉声を「玉音」(ぎょくおん)と呼んだことから、「玉音放送」と呼ばれている
クーデター首謀者たちは玉音が録音された録音盤(レコード)のありかを探し、宮内省(現在は「宮内庁」だが当時は「省」)に侵入し職員を監禁・脅迫しますが、見つけることができませんでした。
そうしている間に近衛師団と宮城に異変が起きていることを察知した陸軍上層部が駆け付け、クーデターを沈静化させました。首謀者であった将校たちは、15日朝、自決(自殺)または逮捕され、クーデターは失敗に終わりました。
玉音放送
1945(昭和20)年8月15日正午、予定通り国内外に向けて、「終戦の詔書」の天皇による朗読が放送されました。詔書の趣旨は、まずポツダム宣言を受諾「した」ことを宣言し、戦争の趣旨と、降伏せざるを得ない状況を説明しています。
その後、戦争で犠牲になったり被害に遭った人々への哀悼の意を述べ、今後来るであろう非常な困難にも力を合わせて団結しよう、と述べています。特に、感情的になって停戦の命令を聞かないことがないように戒めています。現代語訳は以下の通りです。
世界の情勢と日本の現状を深く考えた結果、緊急の方法でこの事態を収拾したい。忠実なあなた方臣民に告ぐ。
私は、「共同宣言を受け入れる旨をアメリカ、イギリス、中国、ソビエトの4カ国に伝えよ」と政府に指示した。
日本臣民が平穏無事に暮らし、全世界が栄え、その喜びを共有することは歴代天皇が遺した教えで、私も常に心に持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定を願うからであり、他国の主権や領土を侵すようなことは、もともと私の思うところではない。
だが戦争は4年も続き、陸海将兵の勇敢な戦いぶりも、多くの官僚の努力も、一億臣民の奉公も、それぞれが最善を尽くしたが戦況はよくならず、世界情勢もまた日本に有利ではない。その上、敵は新たに、残虐な爆弾を使用して多くの罪のない人を殺し、被害の及ぶ範囲を測ることもできない。このまま戦争を続ければ、日本民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明も破壊してしまうだろう。
そんなことになってしまえば、どうやって私は多くの臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪すればよいのか。これが、私が政府に共同宣言に応じるように命じた理由だ。
私は、東アジアの解放のために日本に協力した友好国に対して、遺憾の意を表せざるを得ない。戦地で命を失った者、職場で命を失った者、思いがけず命を落とした者、またその遺族のことを考えると、身も心も引き裂かれる思いだ。戦争で傷を負い、被害にあって家や仕事を失った者の生活についても、とても心配だ。
これから日本はとてつもない苦難を受けるだろう。臣民のみんなが思うところも私はよくわかっている。けれども私は、時の運にも導かれ、耐えられないことにも耐え、我慢できないことにも我慢し、今後の未来のために平和への道を開いていきたい。
私はここに国体を守ることができ、忠実な臣民の真心を信じ、常に臣民とともにある。感情の赴くままに問題を起こしたり、仲間同士で排斥したり、時局を混乱させたりして、道を外し、世界からの信用を失うことは、私が最も戒めたいことだ。
国がひとつとなって家族のように団結し、日本の不滅を信じ、責任は重く、道は遠いことを心に留め、総力を将来の建設のために傾け、道義を大切にし、固くその考えを守り、国体の本質を奮い立たせ、世界の流れから遅れないようにしなさい。
あなた方臣民は、これらが私の意志だと思い、実現してほしい。
💡 終戦の詔書原文(常用漢字版)はこちらで読めます ➡ 終戦の詔書(大東亜戦争終結の詔書)
玉音放送の音声
出典:「徳島新聞動画 TPV(Tokushima Press Video) 玉音放送原盤公開 宮内庁」
玉音放送そのものは音声が途切れがちだったり、使われている言葉が難しかったことにより、はっきり意味の分かる人は限られていましたが、雰囲気やその後のラジオの解説などにより、国内外の国民は日本が降伏したことを知りました。
軍に対しては、翌16日、正式に停戦命令が下され、順次武装解除がなされました。当初、停戦命令に従わない部隊も一部あったものの、大きな反乱などはありませんでした。
しかし、玉砕した太平洋の島々で生き延び、ゲリラ化して山中にこもっていた日本兵の中には、終戦と投降の呼びかけを信じることができず、戦後しばらくそのまま山中で暮らし続ける例が多数ありました。
9日から満州に侵攻を開始したソ連軍は日本がポツダム宣言受諾を通告しても進撃を止めず、そればかりか16日には南樺太、17日には千島へ侵攻を開始しました。
ソ連は満州で関東軍将兵を中心に約60万人の日本人を拉致し、最長11年にわたり極寒のシベリアで強制労働につかせました(シベリア抑留)。
シベリアでの正確な死亡者数は不明なものの、約6万人が、極寒と飢えの中での厳しい強制労働のために死亡したとされます。
💡 満州の惨状・シベリア抑留の概要はこちら ➡ ソ連の満州侵攻(下)―絶望の満州から地獄のシベリア抑留へ
マッカーサーの日本上陸
日本が降伏した後、終戦に関する手続きを連合軍と相談するため、日本側代表団がマッカーサーのいるマニラへ飛びました。
そして8月30日、連合軍総司令官に任命されたアメリカのマッカーサー元帥は、神奈川県の厚木飛行場に到着。
9月2日には東京湾上に浮かぶアメリカ海軍戦艦「ミズーリ号」上で降伏文書への調印式が行われ、ここに3年8か月に及んだ太平洋戦争/大東亜戦争、および宣戦布告のないまま8年前に始まった日中戦争/支那事変は終結しました。
これは同時に、明治維新以来77年、日本が進めてきた歩みが終わった瞬間でした。
本項は「図説 太平洋戦争」「あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書 (新潮新書)」を元に構成しました。
より深く知りたい方へ
「日本のいちばん長い日」(半藤一利著)は宮城事件を中心に、終戦にいたる日本の意思決定過程を丹念に追った作品です。聖断と玉音放送の裏に隠された、日本の歴史上きわめて重大な出来事を知ることができる作品です。オンライン視聴のできる「Amazon ビデオ」と小説をご紹介します。
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photo: wikimedia, public domain
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