日中戦争開始から足掛け8年、軍隊も国家経済も破綻状態にあった日本は、ソ連侵攻と2発の原爆により、ついに無条件降伏を決定しました。
日本が帝国として、明治維新以来77年進んだ歩みを、自ら閉じる「その日」にいたる激動の道程です。
目次
ソ連に託した一縷の望み:日本の和平工作
悪化する一方の戦況
1944(昭和18)年7月のサイパン島陥落で、日本が設定した「絶対国防圏」の主要な一角が破られ、続く10月にはフィリピンへアメリカ軍が上陸。
そのころには日本の連合艦隊も壊滅し、日本近海まで制空権・制海権を握られました。
アメリカ軍の潜水艦や軍艦、飛行機に阻まれ、ボルネオ・ジャワ・マレー半島などの南方資源地帯からの資源供給もほとんど届かなくなり、戦争継続はおろか市民の日々の生活のための食糧や資源もいよいよ底をつくようになります。
1945年に入ると、アメリカ軍はサイパンのあるマリアナ諸島と日本本土の中間地点である硫黄島(いおうとう)へ上陸し(2月)、3月10日にはサイパン島などから飛び立った300機以上のB-29により、東京の下町を一晩で壊滅させました。
そして 4月1日にはついにアメリカ軍が沖縄本島に上陸します。
ヨーロッパ戦線では、イタリアは1943(昭和18)年9月に既に連合軍に降伏しており、ドイツでは1945年、ナチス総統のヒトラーが4月30日に自殺し、ドイツは5月7日に降伏しました。これにより、世界で連合軍と戦うのは日本だけとなりました。
和平の模索
この頃になると、日本の内外で様々な人たちが日本と連合国の和平を模索(終戦へ道筋をつける)するようになります。
そのうち日本政府が最も期待したのが、ソ連を仲介役として、アメリカ、イギリスなどの連合国との和平交渉をすることでした。
ドイツとの戦いに勝利を確信したソ連は、4月半ばごろから満州・ソ連国境などの極東地域へ大軍を移動させていました。
そのような状況分析により、参謀本部(日本陸軍の作戦を立案する中枢機関)ではこの年の8月末か9月初めには日本に対して戦争を始めるのではないかと考えていました。
また、ソ連は4月5日、日本に対し翌年期限切れとなる「日ソ中立条約」を延期しないと通告しました。
日本政府と軍部が初めてこの終戦に向けた問題を討議したのは、ドイツ降伏後の1945年5月11日のことでした(最高戦争指導会議構成員会議)。
この会議で、以下の3項目を目的としてソ連と交渉を開始することを話し合い、6月の御前会議(天皇出席の元行われる最高の意思決定会議)で具体的にソ連に対し働きかけをすることが決まりました。
- ソ連の対日参戦防止
- ソ連の好意的態度の誘致
- 有利な戦争終結の仲介を依頼する
仲介を依頼するからには、見返りがなくてはなりません。日本はソ連に対し、日露戦争以前の国境線に戻すことを基本とし、南樺太の返還や満州におけるソ連への権益の譲渡などを交渉仲介の見返りとして考えました。
そして元首相の広田弘毅(ひろたこうき)や近衛文麿(このえふみまろ)を特使(特別の命を帯びた使者)として派遣。何度か話し合いが持たれたものの、ソ連側はのらりくらりとかわすばかりで交渉は一向に進展しませんでした。
ソ連は1945年2月にアメリカ、イギリス、ソ連首脳の間で行われた「ヤルタ会談」にて、ドイツ降伏後90日以内に対日参戦するという密約を交わしていました。
そのため、ソ連側に日本の和平工作に応じるつもりはありませんでしたが、日本は最後までそのことを見抜けず、ソ連の仲介に望みを託していました。
ポツダム宣言とソ連平和工作の失敗
日ソ中立条約を結んでいたため、1945年7月26日に発表された「ポツダム宣言」には、当初ソ連は表面上参加はしていませんでしたが、ドイツのポツダムで行われた会談にはソ連の最高指導者スターリンは参加しており、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相とともに、第二次世界大戦後の諸問題を話し合っていました。ソ連はその後、日本への宣戦布告と同時にポツダム宣言に参加します。
💡 ポツダム宣言の解説ページはこちら ➡ ポツダム宣言―連合国の降伏勧告
ポツダム宣言を「黙殺」することに日本政府は決めましたが、それは連合国にポツダム宣言の「拒否」と受け取られました。
その後8月6日に広島へ原爆が投下され、広島市は一瞬で壊滅してしまいました。8日夜、ソ連の外務大臣モロトフの呼び出しを受け、駐ソ連大使の佐藤尚武が会いに行きました。
日本としては、和平仲介工作に対する返事をもらえると期待していましたが、そこでモロトフが告げたのは、対日宣戦布告でした。
「日ソ中立条約」はまだ来年までは有効のはずでしたが、それを破っての突然の通告でした。そしてその直後、8月9日未明に満州国境に配備していたソ連の大軍団が満州へ攻めてきたのでした。
💡 ソ連の満州侵攻の解説はこちら ➡ ソ連の満州侵攻(上)―参戦準備と戦闘開始まで
天皇が決めた「無条件降伏」
ソ連の満州侵攻を受け、9日午前10時30分より、日本側は「最高戦争指導会議」にて今後の処置を話し合いました。
徹底抗戦を主張する軍部(ただし海軍大臣米内光政(よないみつまさ)は和平に賛成だった)と、降伏(ポツダム宣言受諾)を主張する鈴木首相・東郷外務大臣らとの間で意見がまとまらず、会議は平行線をたどりました。
その日はその後も断続的に複数の会議が行われ、日付も変わる午後11時50分より、皇居の防空壕の一室で天皇臨席のもと再度会議が行われました(御前会議)。
午前二時過ぎまで激論は続けられましたが、結論は出ませんでした。そのため天皇は意見を求められ、次のような趣旨のことを述べました。
我が国の現状、列国の情勢などを顧みるとき、これ以上戦争を続けることはわが民族を滅亡せしめるのみならず、世界人類を一層不幸に陥れるものである。自分としては、これ以上戦争を続けて無辜(むこ)の国民を苦しめるに忍びないから、すみやかに戦争を終結せしめたい。
出典:「図説 太平洋戦争」
ここに初めて明確に連合国に対して無条件降伏する意思が示されました。これは「聖なる判断」ということで「聖断」(せいだん)と呼ばれています。
"Subject to" の真意を探れ
天皇の判断に従い、8月10日に日本から連合国にポツダム宣言受諾の意思を申し入れました。
この時、ポツダム宣言には天皇の地位についてはっきりと書かれていなかったので、降伏後に天皇を中心とする日本の体制は維持されるのか(国体護持)、について確認するよう、特に軍部から強い要望があり、それについての確認が行われました。
アメリカ側からの返答は、
天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官に "subject to" する
the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied powers
出典:日本語「あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書 (新潮新書)」、英語「Wikisource」
というものでした。この "subject to" の訳し方について様々な意見が飛び交い、最終的に外務省は「制限下におかる」と訳しました。
これであれば、連合軍による制限は加えられつつも、国体は護持できると考えられます。しかし、陸軍は「隷属する」と訳すのが正確だと反論しました。
隷属では天皇は完全に連合軍の下に置かれることとなり、絶対飲める条件ではないと反発しました。さらに外務省が "subject to" の真意を確認したところ、アメリカ側は「文字通りの意味である」と返答。
陸軍はこれでは国体護持は図れないと主張し、戦争継続を強く訴えました。
政府・軍部は再び混乱し、みかねた天皇は14日午前、御前会議を自ら召集。その場で、
反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状を十分考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。
と述べました。出席者たちは全員すすり泣きを始めました。この天皇の言葉で日本のポツダム宣言受諾は動かせぬものとなりました。
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