日本軍の敗北
本島北部へのアメリカ軍の進撃
アメリカ軍は海岸線の制圧を急ぎました。日本軍の逆上陸を恐れたのです。日本軍は民家や茂みに狙撃兵を配置して反攻します。日本軍が出没した集落はアメリカ軍に徹底的に焼き払われました。
4月13日、アメリカ軍は沖縄本島最北端の辺戸岬(へどみさき)に到達。日本の北部守備軍の拠点、本部(もとぶ)半島・八重岳(やえだけ)は標高450m、天然の要塞でした。
2800人の守備軍のうち、1/3が民間人・子どもの招集で構成されていました。
5日間の戦いで守備隊は山へ逃れました。アメリカ軍は空からナパーム弾を投下し、山を焼きました。
大規模な山狩りも行い、山に潜む日本兵を殲滅します。山には敗残兵だけでなく、多数の住民もいました。
敗残兵が住民をスパイと決めつけ各地で食糧を奪い、殺害していくこともありました。住民のスパイ摘発のための特務機関も設置されました。
「防諜(ぼうちょう)に注意すべし」という掛け声のもと、「沖縄語を持って談話しある者は間諜(かんちょう=スパイ)とみなし処分す」という布告が出されました。沖縄方言で話すことすら処刑の対象となりました。
首里攻防戦
4月19日、首里戦線への総攻撃が始まります。日本軍は東西に延びる丘陵地帯を利用し、アメリカ軍の攻撃を待ち伏せました。
住民は軍隊と共にいることが安全だと思い、軍と行動を共にしました。
突入して来るアメリカ軍戦車には砲撃を加えるとともに、さらに近づいてくると爆弾を抱えた日本兵が突っ込み、戦車もろとも自爆しました(肉弾戦法)。
防衛隊や鉄血勤皇隊も肉弾戦法を行いました。日本軍の反撃により、5月末までにアメリカ陸軍の戦車は57%が破壊されました。
この時期、日中の気温は30度近くまで上がりました。衛生状態の悪い戦場では、かすり傷でも負えば、即座にハエがたかり、ウジが湧きます。
5月に入るとアメリカ軍は全ての洞窟をしらみつぶしに破壊する作戦に出ました。
首里攻防戦では兵隊も住民も死ぬまで戦い続けるか、生き埋めになっていきました。
5月末までの首里での戦いで、戦死は6万4000人にのぼりましたが、捕虜になったのは200人余りしかいませんでした。
米軍側の被害も続出します。神経を病む戦闘恐怖症が続出。アメリカ軍の死者・負傷者は約5000人にのぼり、墓穴をブルドーザーで掘らなければいけないほどでした。
何よりも犠牲を強いられたのは住民でした。この地域での死亡率は50%にのぼり、一家全滅が全世帯の約4分の1を占めます。
降り続く雨が足元までつかり、病気が蔓延します。「泥と炎の沖縄戦」でした。
首里の陥落と南部への退却
5月25日、アメリカ軍は県都那覇へ兵を進めます。逃げ遅れた市民の死体が累々と残されました。5月29日、日本軍司令部のある首里城を占領。
これで沖縄戦は終わったとアメリカ兵の誰もが思いました。しかし、第32軍は残り3万となった将兵と共に南部へ逃れた後だったのです。
アメリカ軍バックナー中将としては最後の一兵まで殺す必要がありました。6月になると周囲の島に掃討作戦を行います。
南部戦線はモップアップ作戦、つまり死体の血をモップでぬぐっていくような作戦と呼ばれました。1日平均1000人以上が犠牲になっていきます。
アメリカ軍にとっては、南部戦線は同時に新米兵士を訓練する場でもありました。彼らは日本本土攻略の格好の練習場としても沖縄戦後半を見ていたのです。
アメリカ軍によって、日本兵や住民に対して投降勧告ビラが800万枚も上空からばらまかれます。投降勧告に応じない者には容赦なく爆弾や手りゅう弾を投げ込んでいきました。
6月18日、バックナー将軍が日本軍の砲弾を受け死亡します。怒り狂ったアメリカ軍は、投降してきた無抵抗の住民も殺しました。
6月23日、日本軍の牛島司令官が自決。アメリカ軍は勝利宣言を出しました。
しかし「最後の一兵まで戦え」と言い残して死んだ牛島司令官の言葉によって、各地で敗残兵は戦いを続け、その後も終戦を迎えるまで終わりませんでした。
沖縄戦によって、県民の4人に一人にあたる12万人(沖縄出身の軍人軍属含む)が亡くなりました。
日本軍は戦況が悪化するにつれ、住民を置き去りにしました。軍隊と住民の共生はあり得ないことを沖縄戦は物語っています。
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