太平洋戦争の日本本土における地上戦で、最大の被害を出した沖縄戦。軍民合わせて20万人が亡くなった地上戦は、どのようなものだったのでしょうか。本項では、沖縄戦の地上戦の全体像を概観します。
アメリカ軍上陸前
沖縄に本格的にアメリカ軍が上陸したのは1945(昭和20)年3月下旬です。しかしその前から沖縄とその周辺はたびたび攻撃を受けていました。
1944年10月10日、アメリカ軍による大規模な空襲がありました。空母からのべ1356機の航空機が出動し、琉球列島全域を爆撃しました。
この爆撃により、日本軍の軍事施設は徹底的に破壊されました。那覇は壊滅的な打撃を受けました。
日本軍は空爆に対し無防備で、台湾から運んできたばかりの食糧が焼かれ、県民1ヶ月分の食料が灰になりました。
沖縄を守備する第32軍司令官の牛島満(うしじまみつる)中将は大本営へ再三兵力増強を要求しましたがかないませんでした。
そこで不足する兵力を補うため、17歳から45歳の男子を根こそぎ動員します。果ては本来軍籍にない60歳、70歳の高齢者まで動員することになります。
男子学生は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)、女子学生は看護要員として動員されました。15歳に満たない子どもも動員されていきます。
戦争前に進んでいた沖縄の「日本化」
独自の文化を持つ沖縄で、日本政府は皇民化(こうみんか)教育を特に進めてきました。御真影(ごしんえい)と呼ばれる天皇の写真は全国の学校に配布されましたが、最も最初に配布されたのは沖縄です。
明治前まで琉球王朝として独自の道を歩んできた沖縄ですが、沖縄県として歩み始めた時に、徹底した国家意識が植え付けられていったのです。
アメリカ軍上陸作戦開始
1945年3月26日、アメリカ軍は沖縄本島西方沖に浮かぶ慶良間(けらま)列島に上陸します。
慶良間列島にはベニヤ板で作った特攻艇「震洋」(しんよう)が数多く準備され、アメリカの艦船が接近して来たら体当たり攻撃を仕掛ける予定でした。
しかし想定よりも早いタイミングで激しい空爆、艦砲射撃を浴びせられ、特攻艇震洋を使う間もなく放棄されます。
慶良間列島への上陸・占領により、アメリカ軍にとって、沖縄本島上陸に向けて安全な後方支援基地が確保されました。
慶良間列島には住民約3700人が住んでいました。そのうち700人がアメリカ軍上陸後間もなく自ら命を絶ちました。いわゆる集団自決です。
死んでいったのは老人や女性、幼い子供たちでした。この集団自決は日本軍が強制したものだったのか、そうではないのか、今でも議論が行われています。
慶良間には朝鮮人軍夫(ぐんぷ)がいました。軍夫とは、軍のために様々な作業を行う人のことです。朝鮮から送り込まれた軍夫が何人徴用(ちょうよう)※され、何人死んだのか不明のままです。
※徴用…戦時などに国家が国民を強制的に動員して、兵役以外の一定の業務につかせること。日本では1939年(昭和14)国民徴用令が制定され、敗戦まで行われた。 「 -工」 「 -船舶」 「軍需工場の工員として-される」 大辞林 第三版 より
アメリカ軍は1300隻の大船団、後方補給部隊まで合わせると54万人で沖縄に押し寄せました。ヨーロッパ戦線の「ノルマンディー上陸作戦」にも従軍した従軍記者はこの光景を、
これまで史上最大の作戦と言われたノルマンディー上陸作戦をはるかに上回る
と感想を述べています。上陸に先立ち、沖縄本島への艦砲射撃を1週間行いました。
この艦砲射撃は畳1畳に2発の割合で砲弾が撃ち込まれたと言われるほど激しいもので、後に「鉄の暴風」と形容されました。
アメリカ軍沖縄本島上陸
4月1日、アメリカ軍は沖縄本島読谷村(よみたんそん)に上陸しました。アメリカ軍は日本軍の波打ち際での強い抵抗を予想していましたが、日本軍は本島南部に兵力を集中させており、アメリカ軍上陸にあたって抵抗らしい抵抗はありませんでした。
読谷村には避難しそびれた住民が残されていました。捕まった住民たちは、殺されるどころかアメリカ兵が食べ物を与えてくれるので驚いたと言います。
しかし背中を見せて逃げる者には容赦なく発砲し、殺されました。上陸してきたアメリカ軍に対する恐怖から、読谷村にある「尻切れ洞」という意味の石灰岩の自然洞窟、「チビチリガマ」では、村民約80人が集団自決しました。
北・中飛行場はアメリカ軍上陸後すぐに占領され、補修・拡張されて米軍基地となりました。
伊江島上陸
4月3日にはアメリカ軍は沖縄本島東海岸に到達します。日本軍の抵抗はほとんどなく、日本軍はどこかに逃げてしまったのではないかという噂が立つほどでした。
4月16日、アメリカ軍は本島西部に浮かぶ伊江島(いえじま)に上陸します。東洋一の2000m級滑走路3本を持つ飛行場のある伊江島は、アメリカ軍の北部地域攻略最重要地点のひとつでした。
伊江島には日本兵2700人、住民3800人が残り、島が丸ごと戦場になりました。住民も武器を持ち戦闘に駆り出されました。
乳飲み子を抱えた母親ですらも、斬り込み隊にさせられたのです。伊江島の住民のおよそ半分が亡くなりました。
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