沖縄戦―少年ゲリラ部隊「護郷隊」

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沖縄戦では、日本軍は10代半ばの少年たち約1000人からなる少年ゲリラ部隊も組織しました。当時から存在が隠されていたこの組織は、故郷を護(まも)る隊という意味で「護郷隊(ごきょうたい)」と名付けられます。

日本軍の少年ゲリラ部隊

護郷隊は、スパイやゲリラ戦を実行できる軍人を輩出する「陸軍中野学校」出身者によって組織されました。

※ゲリラ戦… 小部隊で敵のすきをうかがい、小戦闘や奇襲をくり返して、敵をかき乱す戦法。遊撃戦法。(出典:精選版 日本国語大辞典

1944年後半にもなると、追いつめられた日本軍はゲリラ戦を本土防衛の対抗策として期待します。

 

招集年齢を下げることで多くの兵を集めた

それまでは17歳以上からしか招集をかけることが出来ませんでしたが、1944年12月、本土防衛の最前線である沖縄と一部の地域では、17歳未満であっても招集できるよう法令(陸軍省令)が変更されました。条件は、「14歳以上でかつ自らの志願であること」です。

しかし、実態は志願とは程遠いものでした。元護郷隊員の証言では、彼らは校庭に集められ、軍人から護郷隊に入ることを勧められた際、「帰ってもよい、しかし帰ったらはがき一枚で呼び出して死刑にする」と言われました。

形式的には志願でしたが、実質的に命令だったと言います。

沖縄の少年兵
沖縄の少年兵

 

死を恐れないようにするための徹底した教育

護郷隊に配属された少年たちには、軍事訓練だけではなく、死を恐れない従順な兵となるよう、徹底した教育が施されました。

一人が敵を10人殺すまで自分は死んではならない「一人十殺」の精神を叩きこまれました。「軍人勅諭」の言葉

義は山嶽(さんがく)よりも重く 死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ
(義務は山より重く、死は羽毛より軽い)

を引用し、命令には絶対服従で、死ねと命令されればいつでもしななければならないと教わりました。

また、死んだら靖国神社に送るから喜べという教えで、上官による暴力も交え死に対する恐怖感を徹底的に抜きました。

護郷隊は山に潜み、最前線で奇襲攻撃を繰り返すゲリラ部隊です。

沖縄では日本軍(第32軍)が主力を中部より南に配置したことで、手薄になった北部地域を守備する役目を与えられました。

💡 沖縄の日本軍の配置についてはこちら ➡  沖縄戦にいたるまでの経緯(2ページ目)

 

アメリカ軍上陸

1945(昭和20)年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸。18万の上陸軍のうち、5万の兵力で本島北部の攻略を行いました。

護郷隊は恩納岳(おんなたけ)、多野岳(たのたけ)に合計約1000名配置されました。

青=多野岳
オレンジ=恩納岳
緑=読谷村(よみたんそん)=アメリカ軍上陸地点付近
紫=首里城=当初の日本軍司令部
茶=摩文仁(まぶに)=日本軍司令部最終地点

 

子どもたちの感情を殺す戦場体験

護郷隊は子どもであることを利用し、アメリカ軍に近づいて敵陣地の情報を調べ、襲撃を行ったりしました。

子どもでありながら、敵と殺し合う体験は、次第に少年たちを変えていきます。親友の死を目の当たりにしても悲しみも感じず、他人を心配する余地もなくなっていきました。ただひたすら命令を一生懸命こなすだけになります。

友に対する優しさも、死に対する恐怖も感じなくなっていきました。恩納岳山頂付近の野戦病院では、意識ははっきりしているものの、自力では歩けなくなった少年兵を軍医が拳銃で撃ち殺した瞬間を目撃した隊員もいました。 

このような壮絶な体験は、元隊員を戦後もずっと苦しめることになります。

少年時代のあまりにも辛く苦しい体験だったため、多くの隊員が戦後ずっと家族にも話すことができずにいました。当時16歳だった元隊員は言います。

戦争はまるっきり異次元の世界 人間の尺度があてはまらない

護郷隊の死者は分かっているだけで162人にのぼります。

 

沖縄以外の日本軍少年兵の計画

少年ゲリラ兵の計画は沖縄だけにとどまりませんでした。500人を超える中野学校出身者が、本土決戦を迎えるため各地に配置されていたのです。

中野学校出身者の配備状況:

  • 北海道・樺太 81人
  • 東北 29人
  • 関東・甲信越 99人
  • 東海 53人
  • 中部・中国・四国 107人
  • 九州 104人

沖縄における日本軍の組織的抵抗が終わる前日の6月22日には、「義勇兵役法」(ぎゆうへいえきほう)が成立。

子どもであっても男子15歳、女子17歳から戦闘に参加させることが、正式に法律で決まります

義勇兵役法によって動員できる人数は2800万人にのぼり、まさに「一億総特攻」のかけ声通り、全国の子どもを戦場に送ることが出来るようになりました。

各地に配置された中野学校出身の工作員たちは、連合軍上陸に備え、各地の住民をゲリラ戦に備え組織化していましたが、8月15日、終戦を迎えました。

※護郷隊の動員の根拠になっていた法令は、国会の承認を必要とする法律ではなく陸軍大臣が独自に制定できる陸軍省の「省令」でした。

参考:従軍看護婦となった女学生たちの部隊「ひめゆり学徒隊」

沖縄戦では、女学生たちも様々なかたちで軍と行動を共にしました。有名な例が高等女学校生・師範学校女子部の学徒による「ひめゆり学徒隊」です。以下のリンクは「ひめゆり学徒隊」の映画の紹介ページです。この映画は登場人物は架空の人物ですが、おおよそ当時の様子を表していると言われています。映画紹介でストーリー概要も記載していますので、ひめゆり学徒隊のおおまかな活動内容が分かるかと思います。

【映画】あゝひめゆりの塔(1968)/沖縄戦で女学生たちに課せられた悲劇の運命(ブログ)

 

もっと護郷隊のことを知るために

より詳しく護郷隊のことを知りたい方のために、以下の二冊をご紹介します。「アニメドキュメント あの日、僕らは戦場で―少年兵の告白」(上段)は、護郷隊がどのようなものだったのか、わかりやすくアニメにしたものです。大きな字で振り仮名もあり、護郷隊と同年齢の子どもさんでも簡単に読み進められるでしょう。太平洋戦争末期、少年たちに何が起きたのかを、今の子ども世代に伝えることのできる一冊です。

僕は少年ゲリラ兵だった:陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊」(下段)は、「アニメドキュメント あの日、僕らは戦場で―少年兵の告白」の元となった本です。陸軍中野学校のゲリラ戦部隊の生き残りの方々を執念の取材で追い続け、集めた貴重な証言をもとに構成されています。護郷隊の話を中心に、他の島に渡り戦後行方をくらました工作員の話や、本土決戦に備えた各地のゲリラ戦準備の話など、非常に内容の濃い一冊となっています。中野学校のゲリラ作戦の詳細を知りたい方にお薦めの一冊です。

 

この項はアニメドキュメント あの日、僕らは戦場で―少年兵の告白(NHKスペシャル)を元に構成しました。

photo: wikimedia, public domain

 

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