戦前の政治と社会(1)政党政治と揺れる社会(1918~1930)

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戦争が起きるには、当然ながらその理由がありますが、長い時間をかけてその理由は形作られていきます。

特に、政治や経済の状況は、国々の根本をなす条件であるために、なぜ戦争が起きたのかを知るための欠かせない要素です。

開戦にいたる、戦前の日本の政治や社会状況はどのようなものだったのでしょうか。2回に分けてお届けします。

政党政治と揺れる社会

今では当たり前になった政党政治(政党を基軸にして行われる政治)ですが、戦前は当たり前のことではありませんでした。

日本で初めて議会(帝国議会)が開かれたのは、1890(明治23)年のことです。それ以降、政党は存在しましたが、明治維新以降政治の中心を担ってきた「藩閥」(はんばつ)が依然として大きな力をふるい、大正時代に入るまで政党の力は十分に強まりませんでした。

 

藩閥とは

「藩」は江戸時代の大名の領地で、「閥」はグループのことです。

明治維新の中心的勢力となった薩摩藩(その後の鹿児島県)、長州藩(山口県)、土佐藩(高知県)、肥前 佐賀藩(佐賀県)を略して薩長土肥(さっちょうどひ)と言い、この4藩出身者がそれぞれ薩摩閥、長州閥、土佐閥、肥前佐賀閥を形成しまし、明治時代の日本の政治・行政の中核を担いました。

中でも強大な力を誇ったのは薩摩閥と長州閥ですが、薩摩閥は明治10年、西南戦争により西郷隆盛を中心とするグループが没落。また、翌年政府で強い権力を握っていた大久保利通が暗殺され、大きく勢力を落とし、その後長州閥がさらに勢力を伸ばしました。

 

政党政治のはじまり

本格的な政党政治が始まるのは帝国議会が始まり30年以上経った1924(大正13)年の第一次加藤高明内閣からです。

それから8年間、立憲政友会と憲政会(立憲民政党)という、2つの大きな政党(二大政党)の総裁が交互に組閣(そかく=内閣を組織すること)する状態(「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)と呼ばれています)が続きました。

この状態が崩れるところが、太平洋戦争へと進むターニングポイントの一つとなります。

立て続けに恐慌に襲われる経済

第一次世界大戦の影響でヨーロッパの生産力が落ち、その代り日本の商品が必要とされ、一時的に好景気となります。

しかしその後1920(大正10)年の株式市場暴落に端を発した恐慌(景気が一気に悪化し、社会が大混乱すること)、1923年の関東大震災、1927(昭和2)年の金融恐慌、1929年のニューヨーク・ウォール街の株価大暴落に端を発する世界恐慌など、立て続けに日本経済は大混乱に見舞われ、人々は断続的に厳しい経済状況に見舞われました。

 

軍縮へと動く時代

第一次世界大戦で大きな痛手を負った欧米諸国は、軍備拡張が各国経済を圧迫し、また戦争を誘発することから、世界的な軍縮を呼びかけました。

1922年にワシントンで、1930年にはロンドンで海軍の軍縮会議が開催され、日本は主力艦(戦艦、航空母艦(空母)等)はアメリカ・イギリスの60%に、補助艦はアメリカの70%に、また戦艦の新規建造禁止(ワシントンで10年、イギリスで5年延長)などの取決めがなされました。

しかし、ワシントン海軍軍縮条約の際には巡洋艦の総トン数の制限はなく、また排水量1万トン以下の空母は条約対象外であるなど、抜け道が多く、条約の範囲内で建艦競争が進む側面もありました。

日本国内では、1929年成立した浜口内閣は財政健全化を指向し、軍縮に前向きでした。

ロンドン軍縮会議では、海軍軍令部の反対を押し切り、条約に調印。これに対し、天皇の専権事項’である兵力量を、天皇直轄である軍令部(=統帥部)の了承を得ずに勝手に決めたことは「統帥権の干犯」(とうすいけんのかんぱん)に当たり、憲法違反であると野党や右翼勢力から厳しく追及されました。

※統帥権の干犯…干犯は、干渉して他者の領域をおかすこと。天皇専権事項である統帥権を、政府がみだりに用いることを指す。

浜口首相はロンドン軍縮会議後、右翼青年に襲撃され、翌年命を落とします。世界的な軍縮の動きに対し、日本国内では軍部や右翼勢力を中心に、政府への不満が高まっていきました。

共産主義思想の広がりと締め付け

この時代、第一次世界大戦中に発生したロシア革命と、新たに誕生したソビエト連邦(ソ連)の影響で共産主義社会主義が世界中に広まっていきました。

ソ連を中心として、共産主義思想を世界に広める国際組織(コミンテルン)も生まれ、その日本支部として日本共産党も結党されました。

しかし、共産主義はその根本的な思想として資本家階級の破壊があり、政府の転覆(てんぷく)を狙う思想であるため、各国政府や資本家は強い警戒感を共産主義に対して持ちました。

共産主義や、共産主義につながる労働者の運動が広がることを防ぐため、政府は1925(大正14)年、治安維持法を成立させます。

この法律によって、天皇制や私有財産制(個人が財産を所有することを認めること)を否定する人物を取り締まることができるようになりました。治安維持法は後に強化されていき、自由主義や反戦運動も取り締まるようになっていきました。

このように、第一次世界大戦後の日本は経済、軍事共に大きな波に翻弄されました。

1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布され、帝国議会が開かれた後、初めて本格的な政党政治が生まれたものの、政党内閣は社会の流れを安定的にコントロールすることができなかったうえに、選挙をめぐる汚職も頻発し、国民から信頼を失っていきます。

また、社会的には、政府へ反対する思想や行動を取り締まるための体制づくりも始まっていきました。

1918(大正7)年~1930(昭和5)年の主な出来事

出来事
1918
(大正7)
8 シベリア出兵:ソ連社会主義の膨張へのけん制として、日本、欧米諸国と共にシベリアへ派兵(~1922)。大戦終結後も日本だけ撤兵しなかったため、後に国内外から批判を受ける
  11 ドイツの休戦協定受け入れにより第一次世界大戦終結
1919 6 「ヴェルサイユ条約」締結:第一次世界大戦の講和条約として、ドイツ側に巨額の賠償金、軍備制限、領土割譲。国際連盟設立決定=ヴェルサイユ体制
1920   戦後恐慌:株式市場の暴落に端を発し、綿糸・生糸相場が半値以下に下落
1922 2 ワシントン海軍軍縮条約:主力艦保有比率をアメリカ・イギリス各5、日本3、フランス・イタリア各1.67に制限。主力艦建造を10年間禁止
  7 日本共産党結成:コミンテルン(共産主義政党による国際組織)支部として非合法ながら成立
1923 9 関東大震災:死者・行方不明者10万人以上、全壊・流失・全焼家屋57万戸。朝鮮人・中国人、社会主義者等に対する大規模殺傷事件発生
1925   普通選挙法成立:満25歳以上の男性が納税額に関わらず衆議院議員の選挙権を持つ
    治安維持法成立:共産主義思想、労働者階級の政治的影響力増大阻止を意図
1927
(昭和2)
  金融恐慌発生:銀行の不良経営状態が暴かれたことがきっかけで、取り付け騒ぎが起こり銀行の休業が続出
1928-1929   大規模な共産党員の検挙・関連団体の解散(3・15事件、4・16事件)
1928 6 張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件関東軍はそれまで支援してきた満州軍閥の張作霖を、中央に諮らず独断で殺害
1929 10 世界恐慌:ニューヨークのウォール街で始まった株価暴落に端を発し、日本も深刻な恐慌に陥る(昭和恐慌)。東北地方を中心に農家は特に厳しい状況に置かれた(農業恐慌)
1930
(昭和5)
4 ロンドン海軍軍縮条約:主力艦建造禁止5年延長、日本の補助艦総トン数、対アメリカ・イギリスの7割に。一部の野党、海軍、右翼等は統帥権の干犯であるとして激しく攻撃。11月浜口首相を右翼青年が狙撃し、重傷を負わせる

 

この項は詳説日本史B(山川出版社)を元に構成しました。

 

アイキャッチ画像:関東大震災で焼けつつある警視庁(Wikipedia, public domain)

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